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171107 近代医療の導入で平均寿命が倍に伸びた 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

  近代医療の導入で平均寿命が倍に伸びた



20世紀の初頭まで、朝鮮では疫病が最大の死因でした。

結核、ハンセン病、チフス、ジストマ、猩紅熱に加え、アヘンやモルヒネ中毒までが蔓延していたのです。

韓流時代劇ドラマを見ると、李氏朝鮮時代が「牧歌的な美しい時代」であったように描かれていますが、実態はドラマとはかけ離れた悲惨なものでした。

当時、朝鮮を訪れたイギリス人旅行家、イザベラ・バードは『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)の中で次のように書いています。



ソウルを描写するのは勘弁して頂きたい・・・・・推定25万人の住民は迷路のような横丁の『地べた』で暮らしている。

迷路の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなくおまけにその幅は家々から出た固体か液体の汚物を受ける穴か溝でさらに狭くなる。

悪臭がぷんぷんのその穴や溝の横に好んで集まるのが、土の埃で汚れた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわり、日光の中で瞬きしている・・・・・ソウルの『風光』のひとつは小川というか下水というか水路である。

ふたのない広い水路を暗くよどんだ水が、かつては砂利だった川床に堆積した排泄物やゴミの間を悪臭を漂わせながら、ゆっくりと流れてゆく。

水ならぬ混合物をひしゃくで手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女の姿・・・・・



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ソウルでさえこんな状態だったのです。

まして地方の町や村の状態は想像に難くありません。

このような最悪の衛生環境のなかで、李氏朝鮮時代にはしばしば10万人以上の死者を出す疫病が流行し、1794年の大流行では人口700万のうち50万人が死亡しています。

当時の朝鮮は西洋医学がほとんど普及しておらず、東洋医学にのみ頼る状態でした。

一般民衆は疫病を治すために巫女の祈祷にすがったり、あるいは李朝時代からの民間医術として伝わっていたとんでもない方法を使っていました。



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牛糞を塗る、ヒマワリのタネを湯がいて食べる、小さなカエルを3匹飲む、じっくり沸かしたお湯に40歳の女性の髪の毛を入れて飲む、ガマガエルを地面に仰向けにし、その腹を3度叩いて地中に埋め、また掘り出してから紐でしっかり縛って焼いて粉にして飲むなどいろいろあります(黄文雄『韓国は日本人がつくった』ワック)。

しかし、どれをとっても気持ちの悪いものばかりで、病状が悪化こそすれ、症状の改善に役立ちそうなものは全くありません。



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日本政府は大韓帝国の衛生環境があまりに列悪なことに驚きました。

日本の保護国となった以上、これをほうっておくことはできません。

早急に近代医療を普及させるべく大韓帝国政府を一生懸命指導しましたが、上から下まで衛生に関する意識そのものが希薄であり、「なぜガマガエルではいかんのか?」という調子でなかなか改善が進みません。

ようやく1909年に慈恵医院を各地に作る管制が発布されましたが、本格的に近代医療システムの導入がはじまったのは併合後、朝鮮総督府が主体的に改善に取り組んでからでした。



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京城にあった大韓医院は併合後、京城大学付属病院となって朝鮮における近代医療の中心的存在となり、各道には慈恵病院が順次作られて、地方の医療の中心となりました。

1910年には上海でコレラが大流行し、これを機会に疫病侵入を防ぐための各開港場における厳密な検疫体制が整備され、またこの年120万人に種痘が施されました。

1911年には皇室から内帑金ないどきん150万円が下賜されて、内地では済世会が組織され、朝鮮ではその資金によって地方の市町村に至るまで医療制度が整備されていきました。

こうして、誰もが国民として身分の差別なく近代医療の恩恵を受けることができるようになったのです。



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このような日本の努力の結果、疫病の流行がなくなり、幼児死亡率も下がって朝鮮人の平均寿命は、1910年の25歳から1944年には45歳まで伸びました。

まさに日本は朝鮮人の寿命を伸ばし、命を増やしたのが歴史的事実でした。




松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃



撮影機材
Nikon F801



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171031 朝鮮農業の発展に努めた日本の民間人 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

 朝鮮農業の発展に努めた日本の民間人



朝鮮総督府の努力とともに、民間人も朝鮮農業の振興に力を尽くしました。

1917年(大正6年)、朝鮮金融組合理事となった重松髜修しげまつまさなおもその1人です。

彼は平安道の寒村に副業(養鶏)を根付かせ、卵の代金を貯蓄させて耕牛を買うシステムを作り上げました。



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実は、それまで朝鮮の農家には副業という観念がなく、冬は何もせずにじっと家の中に閉じこもっているばかりで、女性は農繁期でも屋外で働くことはありませんでした。

重松は朝鮮農民の窮状を救うべく農村に飛び込み、資材をすべて投じて農民たちに養鶏業を教え、数々の軋轢や困難を乗り越えて、朝鮮農民の副業による自力更生の道を開いたのです。

彼は三一暴動で被弾して右足が不自由になりながらも、終戦までの31年間、朝鮮のために熱誠無私の半生を捧げ、朝鮮の人々から「聖者」として尊敬されました(田中秀雄『朝鮮で正邪と呼ばれた日本人』草思社)。

また、「朝鮮の二宮尊徳」と呼ばれた朝鮮米穀倉庫会社社長、石塚俊は水利改善や品種改良、農機具や肥料の改良や田植えの方法などを教え、朝鮮農業の生産性の飛躍的向上に貢献しました。



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このように、朝鮮農業の近代化は重松や石塚のような民間の人々の熱意に支えられたことは間違いありません。

農業生産の向上は、新技術の導入もさることながら、農民の間に勤勉の精神が根付いて初めて達成されるはずです。

口先で教えるだけでなく、ともに汗を流してくれる日本人の姿に感銘した朝鮮農民は、次第に日本の勤勉の精神を理解し、身に付けていったのです。



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このような日本の官民挙げての朝鮮農業支援の結果、米の生産高は日韓併合が行われた1910年に朝鮮全土で約1千万石程度だったものが、1928年(昭和3年)には1千7百万石、1930年代に入ると2千万石を超え、当初の2倍以上の生産高にまで増加しました。

また、1926年時点で大豆と雑穀の生産高も併合時と比べて60%増えました(黄文雄『韓国は日本人がつくった』ワック)。

特に、宇垣総督の在任期間と重なる1933年(昭和8年)から1938年にかけての農家収入は、上記『朝鮮総督府施政年報昭和16年版』(国立国会図書館蔵)によると、5年間で約2倍に増えています。



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このように、日本統治機関に食糧生産が増加して、餓死者がなくなるばかりか朝鮮農民の収入は大幅に向上し、豊かになった朝鮮の人口はどんどん増えていきました。


松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃



撮影機材
Konica HEXAR



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171022 宇垣一成総督の農村振興運動 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

    宇垣一成総督の農村振興運動


1931年に挑戦総督となった宇垣一成は、赴任にあたり天皇陛下へ「内鮮融和」と「朝鮮人にパンを与えること」を二大目標とすることを奏上しました。

赴任後の彼の日記には、次のようなことが記されています。

「咸南北、江原道以外にも飢餓に貧するもの少なからずして、わずかに草根木皮によりて露命を繋ぎあるものを聞き、心痛に絶えずして当路者に糺せば彼曰く『朝鮮にては左様のことは珍しくもなく、今頃になれば毎年各地に現わるる事象である。今一月もすれば木の芽も出て草も生じるからそれにて収穫期までは何とかして行く』とて深く配意する様子もなかりし。動物的の生活はいかにも気の毒千万なり。何とかしてなるべく早く人間としての生活だけは保証してやり焚き物なり」



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宇垣総督は「心田開発」「物心一如」「自治自立」を説いて、上からの改革ではなく農民自らの意識改革に基づく農業改革が行われるように努力しました。

彼は1936年までの在任期間中、たびたび地方を視察し、郡守(知事)や邑面長(村長)の説明を聞き、農村に自ら入って更生農家を訪れ、農民たちを激励しました。

さらに彼は総督府以下各地方官署、学校、金融組合、企業諸団体など統治機構の全てをあげて「朝鮮農山漁村振興運動」という大運動を展開しました(黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社)。



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この運動を推進するに当たっての留意点が、朝鮮総督府『施政25年史』(国立国会図書館蔵)に、次のように記載されています。

「朝鮮農地令による小作権の確立」
「税制の整理による農村負担の軽減」
「低利資金の融通による農家高利負担の借替」
「低利資金の融通増加と自作農地の創定」
「米穀問題の根本的対策と米価の安定」
「小産業法人の設置と農村販売・購買の合理化」
「多角農業主義による南棉北羊奨励」
「農業・林業の協調を助長すべき農用林地の設置」
「西北鮮及び満州への移民奨励」
「農村窮迫緩和の目的よりする工業の誘致」
「簡易学校と実業補導」等

農民の自力更生と内地並みの生活をめざしたこの運動では、農業振興を担う人材の育成や副業の指導、婦人のための講習会、ハングル講習会、家計簿の普及など、生活改善全般の指導が行われました。

これにより朝鮮農民の意識は近代化に向かって大きく前進しました。



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この運動の精神は、戦後も朴正熈大統領の下で行われたセマウル(あたらしい村)運動に引き継がれています。



松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃





撮影機材
Canon AF35M



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171009 春を越せずに餓死した李朝時代の農民 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

 春を越せずに餓死した李朝時代の農民



李朝末期における朝鮮農民の生活は悲惨でした。

これは両班や官吏による農民からの収奪が一番の原因ですが、農民としても作れば作っただけ持って行かれるため、「作る気力」すら失い、春先に食べるものがなくなれば草を嚙み、木の根をかじって飢えをしのいでいました。

この時期を「春窮」といい、毎年多数の餓死者が出ていました。

『朝鮮総督府施政年報 昭和16年版』(国立国会図書館蔵)も次のように記述しています。

「併合前の多年の秕政(悪政)による結果はついに自暴自棄・安逸遊惰の性格を馴致し(なれて)彼我相俟って(それらがいろいろ合わさって)農村窮乏の重大原因を為すに至れる」(( )内は著者)



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この悲惨な朝鮮農民の生活改善こそが、朝鮮総督府の施政の最大の目標だったと言っても過言ではないでしょう。

1920年(大正9年)より1937年(昭和12年)まで朝鮮殖産銀行の頭取を務めた有賀光豊は、朝鮮農業改革に力を入れ、彼の建議に基づいて、1926年(大正15年)に「朝鮮産米増殖計画」が施行されました。

この計画は1926年より12年間で35万町歩の土地改良を行うことを目標としており、これによって年額82万石の米の増殖を図り、一部朝鮮内の消費に充当し、多くを日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにするのが目的でした。

この計画に必要な経費見積は2億8千5百万円であり、そのうち6千5百万円を日本政府より直接補助し、残りは政府斡旋による低利資金の借り入れと民間からの資金調達によることが決まりました。

資金調達をまかされた有賀光豊は大蔵省との折衝に奮闘し、また日本の民間投資家に朝鮮の土地改良事業の有望性を説いて回り、多くの日本人の協力を得て計画は軌道に乗りました。



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併合当初、朝鮮の水田はその80%が天水に依存しており、池やダムなどの水利施設は全くありませんでした。

この計画により灌漑設備を備えるなどの改良が進み、最終的に70%以上の水田が天水に依存せずにすむようになりました。

「天水田」に灌漑用水が満々とたたえられるのを見た当時の朝鮮農民の喜びようは、それこそ大変なものでした(呉善花『生活者の日本統治時代』三交社)。

有賀が中心となって進めた「朝鮮産米増殖計画」では、このような土地改良のみに止まらず、肥料改良、種まきの方法、品種の改良など農業全般にわたる改良が行われ、この計画の進行に伴って朝鮮農業は飛躍的に発展したのです。




松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃




撮影機材
Canon AF35M




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170919 地獄から天国に変わった刑務所 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

 地獄から天国に変わった刑務所


日韓併合当時の朝鮮の監獄は、信じられないほど不潔で残酷な者でした。

手かせ足かせに首かせまでさせられ、寝る時も体の自由がなく、罪人は次第に憔悴していきました。

手かせ足かせなどは殺人、強盗、脱走犯などの重罪人に対して行うことになっていましたが、実際には賄賂の有無で決まってしまいました。

食べるものは雑穀のみ、さらに監獄自体が非常に狭く、1920年から22年まで総督府監獄課長だった柿原琢郎の回想では、併合直前の監獄は一坪に15、6人押し込む有り様で、寝るのも交代で寝ていたとのことです。

国分三亥こくぶさんがい(1908年旧韓国の検事総長)も、「獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のようであり、乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました」と語っています(中川八洋『歴史を偽造する韓国』徳間書店)。

糞尿のにおいが充満し、それこそ地獄だったでしょう。



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このような事情を朝鮮総督府『施政25年史』(国立国会図書館蔵)では、次のように記録しています。

「併合前後の監獄は舊韓國時代に在りて最も顧みられなかったものの一つで、その内部の不潔、不整頓竝びに罪囚取扱の残酷なることは彼の李太王の初年に投獄せられた佛國宣教師ベルヌーの日記を見ても、一読膚毛の粟立ちするを禁じ得ないものがある」

これが当時の実情だったのです。

ここでまた『朝鮮独立運動之血史』の内容を紹介しておきます。

朴殷植は日本統治時代の監獄について、こう書いています。

「監獄において毎日1回、両親指をきつく縛り天井にかかっている鉄鉤にその縄の端をかけ人を空中にぶら下げて拷問した」

「監房の容積は一坪に囚人5人の定員になっていたが現実には一房15人から50人を収容し、そのために収容者は座ることも寝ることもできないで、皆起立したまま日夜を過ごした。(中略)囚人の多くは、このような虐待に耐えられなかった。死亡者はほとんど栄養失調からくる病弱死が多かった」



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一読しておわかりでしょう。

前者はシャルル・ダレが書いている李氏朝鮮時代の吊り拷問であり、後者は柿原琢郎が呆れ果てた大韓帝国の監獄の実態そのものです。

朴殷植は『朝鮮独立運動之血史』で、大韓帝国時代まで続いていた地獄のような監獄をそのまま日本統治時代の監獄として描くことで、日本への憎悪を煽っているのです。

実際には、朝鮮総督府はこのような「地獄の監獄」を人道的な日本の刑務所並みにするために大変な努力を払いました。

前述のように拷問も禁止されています。

1912年には、30万円(現在の価値で百億円以上)をかけて作られた清潔で近代的な京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)が完成。

旧監獄から移された受刑者にとっては、スペースも広く、運動場もあり、食事も満足に食べさせてもらえる日本式の刑務所に移って「地獄から天国」に移った思いだったでしょう。



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1919年からは、斉藤総督のもとでさらに刑務所の近代化と拡張が行われ、監房のスペースも一層改善されました(中川八洋『歴史を偽装する韓国』徳間書店)。

日本の統治によって朝鮮の残虐な拷問や刑罰は廃止され、地獄の牢獄も無くなりました。

このように、日本は近代的司法制度を朝鮮に導入して人命と人権が尊重される安定した社会を作り上げたのです。

命を奪ったなんてどうして非難されなければならないのでしょう。





松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃




撮影機材
Canon AF35M




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