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161209 朝鮮語が学習科目から外れたことが、なぜ「朝鮮語禁止」となるのか 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

 4︎⃣「国語を奪った」への反論

朝鮮語が学習科目から外れたことが、なぜ「朝鮮語禁止」となるのか



併合後、普通学校では朝鮮語を必修とし、小学校では選択科目になっていましたが、1938年(昭和13年)に教育法が改正され、日本と同じ学校制度となりました。
これにともなって、朝鮮語が必修科目から選択科目となり、1941年(昭和16年)からは朝鮮語の科目そのものがなくなりました。

これをもって、「朝鮮人から国語を奪ったプロセスである」と韓国は日本を非難しています。
しかし、1938年は日中戦争(支那事変)が本格化した年であり、1941年には米英との戦いが始まりました。
内地の日本人が死にもの狂いで戦っている時に、朝鮮総督府としても朝鮮語教育に力を入れる余裕が一時的になくなったのもしかたのないことです。

しかしそれだけではありませんでした。


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戦争という非常事態にあって、朝鮮人もオールジャパンの一員として日本人と一致団結して国難を乗り越えようという雰囲気が、朝鮮半島に充満していました。
朝鮮の人は、そうすることが日本人と朝鮮人が完全に平等になる道だと信じていたのです(第4章にて詳述)。

そのためには、一刻も早く日本語を習得する必要があり、学校での朝鮮語の授業が選択性となり、さらに廃止されたのはむしろ自然であると多くの朝鮮の人々が受け取っていました。

朝鮮語の授業が選択性となった時、朝鮮人校長の学校はすぐに朝鮮語教育を止めたのもこのためでした。
一方、日本人校長の学校では朝鮮語を民族の言葉として重要視しており、1941年に授業科目から外されるまで朝鮮語教育を続けました(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』展転社より)。


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ここで大切なことは、朝鮮語が授業科目から外されたことが「朝鮮語禁止」を意味する者では全くないということです。

当時の朝鮮にいる日本人の人口は、半島の全人口の2%程度でした。
彼等は主に年や港湾の近くに住んでおり、農村部に入れば一つの村に、駐在所の巡査、小学校の先生、水利組合と金融組合の職員を合わせても日本人の数が5、6人を超えることがありませんでした。

その数の日本人が残り98%の朝鮮人に朝鮮語を禁じるなどできるはずがないことは、まともな常識のある人なら誰でもわかるでしょう。


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韓国の教科書には「ハングルで刊行された新聞が廃刊させられた」と書いてありますが、実際には京城では終戦まで朝鮮語の新聞が二紙も発行されており(中村粲『韓国併合とは何だったのか』日本政策研究センター)、「朝鮮語禁止」など全くありませんでした。


松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃




撮影機材 Nikon F801



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