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160927 「日本との一体化が国を救う道」と訴えた一進会 

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第2章 韓国が糾弾する「七奪」を論破!

 2︎⃣「主権を奪った」への反論

「日本との一体化が国を救う道」と訴えた一進会


第二次協約以降、日本の保護国となった大韓帝国の近代化は、日本の援助にもかかわらず遅々として進みませんでした。
政府高官の間では汚職・賄賂が横行し、人民は相変わらず飢えに苦しんでいました。

一方、大韓帝国内では、宋秉畯や東学党の流れをくむ李容九が1904年に「一進会」を結成し、日本との一体化こそが国を救う道であると朝鮮民衆に説きました。

一進会は当時の大韓帝国における最大の政治団体となり、日露戦争では大韓帝国が全く動かないなかで、弾薬や糧秣の搬送、敵情視察など一進会の会員が日本軍に積極的に協力してくれたのです。


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1909年(明治42年)に李容九は、一進会百万人会員の名前で全国民に訴える合邦声明書を発表、さらに韓国皇帝に対する上奏文、曾禰荒助統監、李完用首相に対し「日韓合邦」の請願書を提出しました。

また、李容九の盟友・宋秉畯は、「連邦制」を意味する「合邦」からさらに進んで「韓国皇帝の権限のすべてを日本国天皇陛下に委譲する完全一体化」を主張しました。

このように、日韓併合は日本が一方的に進めたのではなく、大韓帝国の中にも日本との「合邦」を推進した人々が数多くいたことも事実なのです。


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これに対し、初代統監であった伊藤博文はもともと併合に反対でした。
彼は日本による保護は一時的なものと考えており、第二次協約を結んだ時点で次のように語っています。


「韓国の進歩は大いに日本の望むところであって、韓国はその国力を発展せしむるために、自由の行動をしてよろしいけれども、ただ、ここにただ一つの条件がある。
すなわち韓国は日本と提携すべしということ、これである。
日章旗と巴字旗(太極旗)が並び立てば日本は満足である。
日本は何を苦しんで韓国を滅ぼすであろうか。
自分は実に日韓の親睦を厚くするについては、自分の赤誠せきせい(真心)を貢献しようとしている。
しかも、日清・日露の両大戦役の間、韓国は一体何を為したか。
陰謀の他に何をしたか。
戦争中は傍観しただけではないか。
諸君は日本がにわかに来たって、韓国を滅ぼすならんと思うのは果たして何に基づくのか聞きたいものである。
日本は韓国の陰謀を杜絶とぜつするため、韓国の外交権を日本に譲れというた。
だが日本は韓国を合邦する必要はない。
合法は甚だ厄介である。
韓国は自治を要する。
しかも日本の指導監督がなければ、健全な自治は遂げ難い。
これが今回の新協約を結んだ所以ゆえんなのである」

(黄文雄『韓国は日本人がつくった』ワックより)



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その伊藤博文が1909年、安重根にハルビン駅頭で暗殺されたことは日本人にとって大きなショックであり、「政情がこれほど不安定のままでは大韓帝国の近代化が進まず、日本の安全も到底確保できない。併合もやむを得ない」という機運が日本国内で一気に高まりました。

伊藤博文暗殺は朝鮮内の一進会の勢力拡大と相まって、日韓併合への流れを最終的に決定づけたのです。




松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃





Nikon F801




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160918の卓上四季 

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FUJIFILM XQ1

160918の卓上四季に次のような内容の記事が載った。

「ああこれでいい、これで大丈夫だ」
「今日は人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う」。
小樽ゆかりの作家・伊藤整が日記にそう書いた。
1941年、米英などへの宣戦布告で太平洋戦争が始まった際のものだ。

戦争が起きて何がうれしいのか、というのが今の感覚だろう。
まして自由人の伊藤である。
だが当時は、大多数の国民が開戦に沸いた。
報道や教育、日常生活にまで統制が及んで、戦いを歓迎するよう仕向けられていたのだ。

と、書かれていた。



「作家で自由人の伊藤が戦いを歓迎するよう仕向けられた」と言いたいらしいが、伊藤整に対して失礼だと思うのだが・・・。
作家で自由人であることは、俗に言う庶民よりより多くのことを知っている知識人であろう。
報道によって戦いを歓迎するよう仕向けられたとするのは、果たしてどうなんでしょうか。




さらに、
当時の日本政府は「満州事変」「支那事変」などと呼んで、戦争という言葉を避けていた。〜と。


「戦争」とは、主権国家間の、軍事力行使を中心とする全面的な争い。
「事変」とは、宣戦布告なしで行われる国家間の戦闘行為。
と国語辞典(集英社)に記載されている。




「満州事変」
昭和6年9月18日午後10時20分、奉天駅から東北に8キロほど離れた柳条湖という場所で、南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された。
この付近で満鉄の警備に当たっていた日本の関東軍独立守備隊は張学良率いる東北辺防軍の仕業だとして、東北軍が駐屯する近くの北大営を攻撃、占領した。
衝突の事実を受電した関東軍司令部は、電報や電話で満鉄沿線の各連隊や独立守備隊を次々に出動させ、19日昼ごろには奉天を制圧、同日中には沿線の主要都市をほとんど占領した。


「支那事変」
昭和12年7月7日深夜11時ごろ、盧溝橋と呼ばれる地域の少し上流東側の荒れ地で夜間演習中の日本の支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊に属する第8中隊が、背後の堤防上から銃撃を受けた。
発砲したのは、中国冀察きさつ政務委員会麾下きかの第29軍第3営とされる。
日本軍が北京郊外に駐屯していたのは明治34年、義和団事件後の条約で認められており、英国など各国の軍同様、現地で演習も行ってきた。
発生当時、第8中隊では初年兵が行方不明(まもなく発見)になっており混乱したが、報告を受けた第3大隊は8日午前5時過ぎから中国軍への攻撃を開始、夕方まで戦闘が行われた。
昭和16年12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。
戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援はこれに反する敵対行動となる。
国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされた。
事変の長期化と共にアメリカ(多量の武器を輸出)やイギリスは重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援した。
昭和16年12月8日の日米開戦と共に蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し日中間は正式に戦争へと突入していった。
同12日、日本政府は支那事変をも含め大東亜戦争と呼ぶことを決定した。







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160915 私のインプレッサ 

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Nikon D200 AF-S NIKKOR18-200mmF3.5-5.6GEDVR

私のインプレッサは、素材そのものです。
雨が降ると、この通り。→ 動画(マイ インプレッサ)
ダートを走ると、はねあげる小石群がタイヤハウスの中を駆け巡りアートブレイキーと彼のジャズメッセンジャーの演奏に挑戦します。



録画 OLYMPUS OM-D E-M5
OLYMPUS ZD14-54mmF2.8-3.5Ⅱ







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160917 大韓帝国政府の閣僚もあきれた「ハーグ密使事件」 

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第2章 韓国が糾弾する「七奪」を論破!

 2︎⃣「主権を奪った」への反論

大韓帝国政府の閣僚もあきれた「ハーグ密使事件」



ところが、高宗は大韓帝国が日本の保護国となって自分の専制権力が失われることに我慢ができず、再び日本を裏切りました。
王権の制限につながる近代国家の制度を、どうしても取りいれたくなかったのです。

彼は1907年(明治40年)、ハーグの万国平和会議に密使を送り、日韓協約の不当性を各国代表に訴えました。

ものすごい執念です。


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密使は皇帝の委任状を見せて会議への出席を求めましたが、各国とも日本の立場を理解しており、結局、どの国にも相手にされませんでした。

しかし、これで日本はまたしても高宗に煮え湯を飲まされた格好になり、大韓帝国政府閣僚たちも高宗のあまりの勝手な行動に、今度ばかりは怒りを抑えることができませんでした。

当時の首相だった李完用以下、閣僚全員が皇帝の退位を迫った結果、ついに高宗は退位することになり、王世子(皇太子)の純宗が大韓帝国第2代皇帝として即位しました。

高宗は権力に執着するあまり、自ら墓穴を掘ってしまったのです。


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日本政府も、度重なる大韓帝国皇帝の裏切りにほとほと困り果てました。
この国はいつまた日本を裏切るかわかりません。
それでは改革が進まず、日本に取っても朝鮮人民に取っても不幸を招くだけです。

そこで日本政府は1907年、大韓帝国政府と大惨事日韓協約を締結して、皇帝の権力を制限し、内政の改革にも直接関与することとなりました。




松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃





Nikon F801






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160912 皇帝は保護国化に批判的だった大臣の意見を却下した 

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第2章 韓国が糾弾する「七奪」を論破!

 2︎⃣「主権を奪った」への反論

皇帝は保護国化に批判的だった大臣の意見を却下した


日露戦争に日本が勝ったことで、ロシアの南進には一旦ストップがかかりましたが、国際信義を全く守らない高宗が実権を持つ大韓帝国のことです。
いつ再びロシアの傘下となり日本に脅威を及ぼすかわかりません。
そうなれば、10万人以上の犠牲を払ってロシアと戦ったことが全く無駄になってしまいます。
日本が大韓帝国の外交権を直接掌握しておきたいと考えたのは無理もありませんでした。
一進会の後押しもあり、日本は1905年11月、大韓帝国政府と第二次日韓協約を締結しました。
これにより、日本は実質的に大韓帝国を保護国として外交権を把握するとともに、同国の近代化を全面的にアシストすることになり、ソウルに統監府がおかれることになりました。


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現在、韓国はこの第二次日韓協約を日本に脅迫されてムスバされた不当な条約であり、「高宗」の署名もないので向こうと主張しています。
しかし、「脅迫」とはピストルなどを突きつけて無理やり署名させることであり、もちろんそのようなことはありませんでした。
軍事的圧力下で結んだ条約が無効であるというなら、江戸末期に砲艦外交で結ばされた欧米との不平等条約も終戦後の講和条約も、すべて無効になるはずです。


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署名については外部(外務)大臣である朴斉純が署名しており、外部大臣は内閣総理大臣とともに国際法上、全権委任なしに条約に署名調印する権限を有しているためまったく問題ありません。

さらに、第二次日韓協約は官報で公布されています。
大韓帝国の法律では皇帝が裁可したものが官報で公布されることになっており、法手続きからみても高宗の裁可があったことを示しています。

また高宗自身の意思についても、韓国側資料「日省録」や「承政院日記」などから、大韓帝国が日本の保護下となる第二次協約に賛成し、批判的だった大臣たちの意見を却下した事実が明らかになっています。


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このように、第二次協約は国際法上まったく問題ありませんでした。
朝鮮半島が再びロシアの傘下となる可能性が残る以上、日本としてはこれを保護国とする以外に道はなく、「朝鮮」という重荷を背負った日本の苦労がこれから始まりました。




松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃





Nikon F801



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160904 卓上四季 

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’16/9/4の卓上四季に次のような内容の記事が載った。

冒頭、「独裁国家や紛争地では、外部の目が届かないところで重大な人権侵害や虐殺が繰り広げられることがある。」
とした上で、
「沖縄県東村高江の米軍ヘリコプター離着陸帯の建設現場で、座り込む市民を機動隊が排除する場面を撮影中だった琉球新報の記者が機動隊に羽交い締めにされ、40メートルほど引きずられた。
国家権力が記者やカメラマンを力ずくで排除する民主主義と無縁な行き過ぎた権力行使に歯止めをかけるには、現場にいないと伝えられない、いまこの国で起きていることだ。」
として、国が「重大な人権侵害を起こしている」との主張らしい。

通常、何らかの工事をする場合、その工事に反対だからといって工事現場に赴き工事を妨害することは許されることであろうか。
報道関係者は、許可なく現場に入り取材することができるのであろうか。

新聞一面の、筆記用の用紙まで販売している「卓上四季」である。




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160902 日露戦争中にロシアと手を握ろうとした高宗 

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第2章 韓国が糾弾する「七奪」を論破!

 2︎⃣「主権を奪った」への反論

日露戦争中にロシアと手を握ろうとした高宗


閔妃暗殺後、「自分も父に殺されるのでは」と心配になった高宗は、なんとロシア公使館に逃げ込み、そこで皇帝として号令を出しました。
他国の領事館で執務するなど例がなく、一国の国王としては情けないことです。

しかし、朝鮮を属国とすることを狙っていたロシアにとってこれほど好都合なことはありませんでした。
閔妃排除後、再び総理大臣に就任して、中断していた改革を進めようとしていた親日派の金弘集を、高宗を操って葬り去り、ロシアに都合の良い政府を作ることができます。
ロシアに頼っていた高宗は早速、金弘集総理と改革派の4人の大臣の捕殺命令を出しました。

金弘集は街頭で虐殺され、これで改革派による閔妃一派の排除も功を奏することなく、朝鮮はロシアの影響下に入ることになりました。
1897年(明治30年)、ロシア公使館を出て宮殿に戻った高宗は国号を大韓帝国に改称し、初代皇帝となって国内での改革勢力を徹底して弾圧し、専制政治を強化したのです。


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その後、高宗は次々にロシアへ朝鮮内の利権を売り渡し、もはや大韓帝国がロシアの属国になることは火を見るより明らかでした。
釜山に近い馬さんにはロシア海軍の基地が建設されており、このまま朝鮮が完全にロシアの支配下に入れば、ロシアはいつでもどこでも日本を攻撃可能となり、日本の独立は文字通り風前のともしびとなります。

「満州はすべてロシアにまかせるから、せめて朝鮮半島には手を出さないで欲しい」と日本は誠意を尽くしてロシアと交渉しましたが、ロシアは全く聞く耳を持ちません。
国際法などお構いなしに力ずくで領土の拡張を続けた当時のロシアは、軍事力を増強して尖閣列島を奪い太平洋の西半分を勢力圏におさめようとする現代中国とウリ二つでした。
軍事力を信奉する国々には、日本国憲法前文に謳われている「公正と信義」など、もともと通じないのです。


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しかし、明治政府は現在の日本政府のような弱腰ではありませんでした。
無法国家に政府は毅然と対応し、国民も国を守るために一致団結しました。
日本は周到な準備と計算のもと祖国防衛のために起ち上がり、当時世界最強と言われたロシア軍を相手に連戦連勝を続けたのです。


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しかし、日本がこの戦争でロシアに勝ったとしても、大韓帝国が再度ロシアと手を組めば何の意味もありません。
そこで、朝鮮の近代化については日本が責任を持つ旨を申し入れ、当時日本の支援による近代化を目指していた一進会も賛同し、大韓帝国政府との間で1904年(明治37年)8月に第一次日韓協約が締結されました。

これにより、日本から大韓帝国へ外交顧問と財政顧問を派遣することが決まり、「外交案件については日本政府と協議し処理する」ことになりました。
この際、外交顧問は列強にも配慮してアメリカ人スチーブンスに委嘱しました。


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ところが一方で、日本と合意しながら高宗は1905年(明治38年)2月に交戦中のロシアに密使を送り、第一次日韓協約の不当性を訴えました。
日本がロシアに勝てるはずがないと踏んでいたのです(実は日清戦争の際も高宗は清と内通していました)。
しかし、ロシアもさすがに高宗を信頼できなかったとみえて、全く相手にはしませんでした。

この高宗の裏切り行為はやがて日本側に伝わり、日本は激怒しました。
こちらと協約を結んでいながら、日本が必死で戦っているロシアと影で手を握ろうとしたのです。
日本人が怒るのは当たり前でした。


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1905年3月、奉天会戦でロシア陸軍に勝利し、5月にバルチック艦隊を日本海海戦で撃滅した日本は、アメリカのルーズベルト大統領の仲介でロシアとポーツマス講和条約を締結。
白人大国・ロシアをアジアの小国・日本が破ったことを知ったアジア・アフリカの有色人種の人々は狂喜しました。

もしこのとき日本が敗れていれば、白人による全世界征服が完了し、アジア・アフリカの植民地支配はその先数百年続いたと言われています。
当然、朝鮮でも李王家は滅ぼされ、白人の植民地となったでしょう。




松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃





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