日常非日常

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150123 新版あとがき 5-5 

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本年3月11日の「東日本大震災」では、かつてない大きな衝撃と深い悲しみに襲われた。
いうまでもなく、日本は歴史的に数多くの大震災にあってきているが、そのたびに改元かいげんが行われ、精力的な「世直し」がなされてきた。
黒船来航の翌年、1854年に起きた安政大地震は3万名の死者を出す大惨事となったが、翌年には江戸直下の大地震が起き、そのわずか13年後に明治維新という大革命が成し遂げられている。


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今年は現代の維新、「日本世直し」へと向かうはじまりの年としなくてはならない。
個人的にも、今年は韓国生活よりも日本生活が長くなる年でもあり、「人生再出発」の年だと思っている。
日本人として、なんとしても日本復興のお役に立つようなことがしたい。
そして、できうれば近い将来、新しい真の日韓関係の時代が開かれることを心から期待したい。

平成23年5月5日
                                呉 善花


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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150122 新版あとがき 4 

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日本生活が深まる一方で、韓国の「呉善花叩き」は一向に止まらない。
韓国のテレビで「呉善花つぶし」を目的とする1時間の特番もあった。
そのため、数日間私の住居の周りに取材陣が張り付き、まことに失礼な一方的取材攻撃で大変な迷惑を受けた方もあった。
最近では、マスコミに加えてインターネットを利用した悪質な非難が増えている。
ほとんどが批判とはいえない、人をおとしめる「捏造・でっちあげ」や汚い侮蔑言葉に満ちたものだ。


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韓国で反国家的要注意人物とされていることから、政治的な身の危険性もあり、日本にすっかりなじんでの生活を生涯続けたい思いが強く、この間に日本に帰化した。
間もなくの2007年11月に日本人のパスポートを持って母の葬儀に向かったのだったが、済州島の空港で入国禁止の措置がとられた。
外務省関係・領事館などを通しての延々たる交渉の結果、国家情報院に「反国家的な活動をしない」との念書を書かされ、葬儀参加だけの特別許可とする入国となり、早々に帰国させられた。
以後、韓国へは行けないままでいる。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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150117 新版あとがき 3 

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私生活の面では、9年ほど前に東京から近くの温泉地背後の山腹に、小さな和風の家屋を建てた。
そこに、猫の額ほどのものではあるが、長い間の念願だった和風の庭を自分のデザインで造ることができた。
リビングからの、海原をオレンジ色に染めながら昇る朝日の景観が素敵だ。
私の生まれ育った済州島の実家近辺で臨める朝日の景観にそっくりで、見るたびに故郷を想い出している。


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3年ほど前には、以前より少し広い新宿・都庁近くのマンションへ引っ越した。
部屋を少々改造して2畳ほどの茶室を造り、たまにお客様をお招きしてお茶会を催し交流の場としている。
また、茶室のなかに神棚と仏壇を隠し設けている。
壁に仕込まれた戸を開けば、日々神仏に祈りを捧げ、亡き父母を想うことのできる聖なる場所へと変身する工夫である。


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今度のマンションのベランダにも和風の庭を造っている。
天気の良い日はリビングの先の庭の彼方に、富士山が小さくも奇麗な姿を見せてくれる。
毎年2月1日の午後5時、富士山の真上に落ちる夕日がダイヤモンドのように輝く。
太陽の神様、富士山の神様、そうした日本の神々に手を合わせる。
今やすっかりそういう自分になっている。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋



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150115 新版あとがき 2 

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余裕は1年と少々、それまでに講義の準備を整えなくてはならない。
それで猛勉強をすることになり、それまでの日常が一変した。
大学の講義・業務に加えて講演や取材の予定が多く、じっくり家にこもる時間がほとんど取れないなか、関連書物を読み、ノートを取り、講義内容をまとめていく。
それらの作業を、あるときは食事をしながら、あるときは電車に乗りながら、また飛行機や新幹線で移動しながらと、まさしく寸暇を惜しまず推し進める日々が続いた。
こんなことになるなら引き受けなければよかったと何度思ったことか。
でも、私はいつもそうだった。
せざるを得ない状況に自分を巻き込むことで、未体験の領域へ突入していく、これが自分のやり方だということを今回も強く実感した。


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大学では4年ほど前に、サークル活動として茶道部を新たに立ち上げた。
伝統ある流派の家元から師範を派遣していただいての稽古である。
たくさんの日本人学生が男子、女子に関係なく夢中になっていく姿を、またその立ち居振る舞いがみるみるうちに立派になっていく様子を目にするたびに、若者たちを主人公とする「古き良き日本探しの時代」を強く感じさせられている。


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大学の仕事は週に3日間を費やし、4日間は講演と原稿書きや取材などの執筆活動に目いっぱい使っている。
講演は年に70〜百回ほどだろうか。
全国を飛び回り各回・各分野の方々と接するので、新しく出会った人と場所を通して得られる知見や情報には膨大なものがある。
呼んでいただいて自らの糧が豊かになるのだから、本当に有り難いことだと思う。


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また昨年からは、いくつかの県で私を講師とする「呉善花塾」が立ち上がっている。
塾生には社会の第一線から退かれた方も少なくなく、勉強となれば「生涯現役」だという方々が日本にはいかに多いかをあらためて知らされている。


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これまでに出版した著書は、共著と文庫を除いた単行本で32冊となった。
最近では日本文化や日本人についての評論集が多く、講演でも同様のテーマの依頼が多くなっている。
大人たちの間でも「古き良き日本探し」がいたって盛んなようである。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋



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150113 新版あとがき 1 

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私は昨年、韓国生活と日本生活がちょうど半々となり、今年は日本生活のほうが長くなる節目の年にあたる。
そんな折、私の日本定住をめぐって書いた本書がはからずも再刊となったことに感謝したい。


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本書を刊行してから12年経つが、その間の最も大きな変化は、なんといっても2004年に拓殖大学の国際学部(国際開発学部改称)教授の職を得て、日々若者たちと身近に接するようになったことである。
初年度の担当講座は「朝鮮半島」「朝鮮半島政治」だったが、翌年から「日本の歴史と文化」が加わった。
そして昨年から「日本の文化」と「日本の歴史」をそれぞれ独立した講座として担当し、それに「民族と宗教」の講座が加わり、「呉善花ゼミ」も含めて現在に至っている。


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「日本の文化」については、研究・評論活動として本格的に取り組んできた分野だったが、「日本の歴史」も「民族と宗教」も自分の専門分野ではなく、担当を命じられたときには少なからぬ戸惑いがあった。
それでもやることにしたのは、一つには大学院で学んだ地域研究(エリアスタディ)の観点が講義に生かせるとの思いがあったからである。


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日本についての外国人によるすぐれた地域研究には、たとえばルース・ベネディクトの「菊と刀」がある。
これは第二次大戦中における日本研究の代表例といってよいものだろう。
この名著を凌ぐ仕事ができないかーーー密かにそんな思いをもってもいた。
国際学部の学生が対象であることからすれば、むしろ日本を視座としながらも、自分が思う地域研究の核心をなす「世界視線」を組み込んだ講義はふさわしいものと思われた。
そしてもう一つは、自分自身が本腰を入れて勉強し直す絶好のチャンスになるということだった。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋





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150111 学があることは反日であること 3 

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私は、小学校高学年あたりから、そのことで大きく迷った。
叔父さんたちが住んでいて、ミカンがたわわに実り、泥棒する人もいない、しかもお風呂に毎日入れて、人は親切だという日本。
その国の言葉をいってみせると、大人たちは「いい子だ」といい、拍手さえしてくれた。


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ああ、大人たちはみんな無学な田舎者だったんだ。
本当の日本がどういう国かということを教わってこなかったから、何もわかっていないんだ。
そうやって私は、学校教育を通して、新しい世界の見方を知ったと思った。


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それは、旧世代の韓国人を超え、旧時代の韓国を超えて、私たちが新しい韓国を建設するんだという、そうした意識を大きく芽生えさせるものでもあった。
私のなかから、急速に日本への親しい感情が消え去っていった。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋



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150108 学があることは反日であること 2 

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しかし、小学校に入り、学年を重ねていくと、「日本人はいかに韓国にひどいことをしたか」ということを教えられることになる。
教室の黒板のうえには、真ん中に大統領の写真が掲げられ、その両脇に「反共」「反日」と大きく書かれたポスターが貼ってある。
反共の「共」はそのまま北朝鮮を指し、いかに共産主義が邪悪で恐ろしい思想かを教わり、その一方で日本人がいかに悪いことをしたかを教わる。
戦後の韓国は、この二つの中心軸をもって民族主義的なイデオロギー教育を展開してきたのである。
こんな教育を受ければ、どんな人でも必ず反日感情をもつことになる。


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日本へ行ってから、知り合いになった台湾人にそのことをいうと、「そんなことはないでしょう」という。
「なぜか」と聞くと、「学校ではすさまじい反日教育を受けた一方、家庭や地域で聞くのは大部分がその反対のことばかりだったからだ」という。
私の場合、家へ帰って学校で教わったそのままに「日本人てひどい人たちなのだ」といったことを語ると、父も母も無言で応じたり、適当にあいづちを打つばかりだった。
私はそのことが不満で、お父さんやお母さんは学歴の低い田舎者だから、何もわかっていないんだと思うようになっていった。


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田舎のおばさん、おじさんたちほど、反日意識が弱いのは、彼らには学がなく無知であるからだ、といういい方は一般的にもよくされた。
高い教育を受けた者は反日意識が高いという常識があるため、自分もそういう子どもだと思われたい、それにふさわしく反日意識を強くもたねば、という気持ちにもなっていく。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋




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150104 学があることは反日であること 1 

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おそらく、あのムーダンのおばさんたちは日本語が話せたのだと思う。
彼女たちの世代はみんな日本語教育を受けていたが、彼女たちの世代にとって、当時の体験が思い出すのも嫌な屈辱に満ちたものであったとは、とうてい思えない。
そうであったなら、いかに幼い者が無邪気に口に出したものとはいえ、得意げに「日本語」をやってみせる私の頭を村の大人たちが「よくできた」となでてくれたり、ムーダンたちが「クッ」の行事で私に日本語をいわせてみんなで楽しむなど、あろうはずがない。


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しかし、暗黙のうちに「親日」がタブーになっていたのはたしかだ。
私が日本に渡ってから、ビジネスのついでに日本人を伴って故郷に立ち寄ったとき、父がその日本人に流暢りゅうちょうな日本語で話しかけていたのには、私は心から驚いた。
私は幼いときから、父が日本語を口にするのを聞いたことは一度もなかったし、日本について話をしたこともほとんどなかった。
だから父は日本語を知らないのだとずっと思っていたのである。


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母から教わったわずかな日本の言葉、そして断片的に聞く日本の話。
私にとって、日本は近くて親しみのある国だった。
実際、まわりの大人たちから聞く話も、決して日本に対して悪い話はなかった。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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