日常非日常

                                        since'11/02/20

141130 すぐに援助しない日本人 

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経済的に困っている親戚なり知人がいた場合、韓国人ならば、目の前でパッとあるだけのお金を渡すなりして助ける。
しかし、日本人は、それをしない。
そればかりか、お金をあげることに罪悪感さえ感じる人が多いようだ。
これも、当時の私には理解できないだけでなく、許しがたいことに思えた。
日本人の説明によると、人を経済的に助けてあげようとすれば、その人のうえに立って施しを与えることになり、失礼にあたる場合があるという。
およそ理解を絶していた。


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それから少し経って、ある日本人が、私がクリスチャンであることを知って、聖書にもそんな教えがあるでしょう、と示唆を与えてくれた。
たしかに聖書には、困っている人に魚をあげてはならない、魚の釣り方を教えなさい、というキリストの教えがある。
私はこのときに、当時私が通っていた韓国協会の牧師さんのお説教を思い出した。


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その牧師さんは日本での布教について、こういったのである。
「日本人は実に正直で曲がったことをしない。礼儀正しく道徳的にもしっかりしている。それはまるで神様のようである。神様でない者が神様のように振る舞うのが日本人だ。しかし、そういう生き方には限界がある。人は神にはなれない弱い存在なのだから、そのことを日本人に自覚させなくてはならない」


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どういうことかというと、日本人は神になれるはずがないのに、神のふりをしようとする高慢な者たちだ、ということなのである。
私はこの牧師の言葉を思い出し、聖書の引用をする日本人を偽善者ではないかと疑った。
神がいうごとく、それをできないのが人間ではないか。
だから、韓国人のようにすぐさまお金で助けるほうが、本当の人間らしい善意なのではないか、と考えたのである。


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そう理屈づけをしておいて、日本人はやはりケチで冷たい人間だと考えた。
だいたい、兄弟間、親子間でもお金の貸し借りに借用書を取ることがあると聞く。
それがその証拠だと、そう思っていたかった。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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141128 仕事か家族か、二者択一の選択 2 

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「たとえ親の死に目に会えなくとも、会社を守り仕事をまっとうすることが、日本では美徳とされているのですよ」と日本人の社長は私に説明するのだが、どうしても自分でそうする気持ちになるとは思えなかった。

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韓国人の価値観では「家族」は最上位に位置するものなのである。
もちろん、その背景には祖先への孝の倫理、血縁主義の伝統があるのだが、それはもう動かしがたい情緒となって身体にしみ込んでいるので、理屈ではないのだ。


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こうしたたとが、日本人と結婚した韓国女性の場合には、単なる設問としてではなく、しばしば具体的な形としてあらわれる。
彼女たちは日本人の夫に対して、よくこんな不満をもらす。
「夫は、私の家の行事になかなか来てくれない。お母さんの法事とか、兄弟の結婚式とか、仕事が忙しいといって来てくれないのよ」


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その程度のことは、と日本人はいうかもしれない。
しかし、韓国ならば、それで会社を休むのは当然のことなのである。
休まないほうがおかしい人間、人の道をおろそかにする者、となるのである。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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141125 仕事か家族か、二者択一の選択 1 

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急速に日本人との付き合いが深くなっていくと、どんどん内面的なものが見えてくる。
アルバイト先でも大学でも、息を合わせてやっていかなければならない人たちが増えてくるころに、最大の問題があらわれるのである。
一つが価値観の違いであり、もう一つが美意識の違いである。


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極端にいえば、私が白と考えることを、日本人は黒だと考える。
その人だけの個性かと思って、ほかの日本人にも聞いてみると、やはりみんな黒だという。
そんな状況にたびたび遭遇することになる。


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たとえば、ある会社の社長が、この日をどう乗り切るかで会社が倒産するかどうかが決まるという、まさにそのとき、社長の父親が重病で入院した。
さて、その日社長はどう行動したらよいだろうか。


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こんなふうに、二者択一の選択を要求される設問を出してみるとわかりやすい。
私が知るかぎり、日本のビジネスマンのほとんどすべてが「会社」を選ぶ。
その理由は、と聞けば、だいたい次のように答えるのである。


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「父親が死ぬかどうかは自分一人だけにかかわることだ。しかし、会社が潰れれば社員の家族を含めて大勢の人間が路頭に迷うことになる」
同じ設問を韓国人のビジネスマンにもぶつけてみたことがあるが、答えは聞くまでもなく、一様に次のようなものなのだ。
「会社が倒れても人が死ぬわけではない。当然、死ぬかもしれない父親のほうが大事だ」
これは、奥さんでも同じことだが、父や母となれば、儒教の孝の倫理からして、そうしない韓国人はまずいないといってよいだろう。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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141116 友だちに冷たい日本人という印象 

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こうしたことに加えて、一番仲のよい、例の消しゴム事件の彼女が、自分の悩みや苦しみを私に話そうとしないのが、私には大きな不満だった。
他人にはいえない悩みを話せてこそ友だちではないか。
それなのに、彼女の話といえばほとんどが軽いものばかりではないか。
それは、私のことを軽く考えているからではないのか・・・・・・。


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そんなふうに思うのも、距離感覚ゼロの間柄こそ親しい友だちだという「韓国流」の意識があるからだ。
ただ、これについては、「日本流」がわかり、それなりに納得できてからも、問題は容易に解消することはない。
いくら「日本ではこうだ」と思っても、べったりと友だちの心に張りつけない寂しさが残るからである。


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日本人と比較していえば、韓国人の友だち関係は実に情熱的だといえるだろう。
少し付き合ってみて、親しくなりたいと思い、相手もそう思っていると感じられたら、まず自分だけしか知らない心の秘密を話す。
相手にも話してもらう。
これで友だち関係が成立するのである。
それをしない間柄は、友だちでも何でもない。
困ったことがあれば何でも相談し、相談を受ければ友だちのために精力的に動こうとする。
相手に面倒をかけることが嬉しいし、面倒をかけられることが嬉しい。
気持ちとしては「命をかけて友だちを守る」と思っているのである。
しかし、それが強くなれば、独善的なものになってしまう。


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それに対して、日本人の友だち関係は、ほのぼのとした温かさが伝わるような感じがいい、ということのようだ。
また日本人は、「友だちに迷惑はかけられない」といういい方をよくする。
深い悩み事があっても、それで友だちを巻き込むようなことがあってはならないと考えるから、簡単に相談しようとはしない。
相手に負担をかけることを、極力避けようとするのだ。
これは、韓国人の友だち関係とはまったく反対だといってよい。


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日本にいて私がもっとも辛かったのは、この友だち関係のあり方の違いだった。
私は学校に行くのが苦痛になるほど落ち込んで、こんなに窮屈な日本にはもういられない、一刻もはやく帰ろうと何度も思ったことがある。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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141115 「じか箸」を嫌う日本人 

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たび重なる行き違いで何か関係がぎくしゃくしてきた。
私は名誉挽回を期して「韓国料理を御馳走するから私のアパートへ来ない?」と何人かの友だちを誘った。
みんな喜んで「行く、行く」という。
人が集まるとなれば鍋料理である。
みんなで寄り合って鍋をつつく。
こうして和気あいあいとなり、見知らぬ人とも親しくなれるというのは、日本でも韓国でも変わりがない。
そういう話は聞いていたから、「これでいこう」ということで鍋料理を考えたのである。


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「ちょっとみんなには辛いかな」という私に、「いや、辛いのは好きよ」「私も平気よ」という具合に、場のムードは盛り上がった。
鍋はみんなが取り囲む食卓のうえでグツグツと煮え立っていた。
「もう、そろそろいいわよ」と私。
が、だれも鍋に手を伸ばさない。
日本人の遠慮か、嫌になっちゃうな、と思いながら、まず私がスプーンですくい、そのまま口へもっていって「うん、大丈夫、十分おいしくなっているよ」とみんなにすすめる。


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「どうしたの、おいしいよ。遠慮しないで食べてよ」
私がそういうと、やがて箸がではじめたが、見ると、だれもが鍋のものをいったんご飯のうえに置き、それからもういっぺん箸をつけて食べている。
このとき私は、泣きそうな気持ちになってしまった。
そんなに、韓国人と一緒に「じか箸」をするのが嫌なのか、そんなに、日本人は韓国人を汚い人間と思っているのか……。


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私は韓国料理だからと、日本のように取り皿を用意しなかった。
韓国では料理を食べるときに取り皿を使わない。
鍋料理を囲むときは、各自が自分のスプーンを直接鍋に入れ、そのまま口れ運ぶ。
そのスプーンをまた鍋に入れては食べるのである。
こうして食べ合うのが親しい間柄の食事なのだ。


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韓国では醤油も味噌も一つの皿に入れ、それに刺身でも肉でも、みんな一緒につけて食べる。
日本では、そうした食べ方はとてもはしたないもの、と嫌がる。
取り箸と取り皿を介して食べる。
最近は少々崩れてきたとはいえ、それが日本人に身についた習慣だ。
それが私にはとても冷たく感じられたのである。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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141111 弁当事件 

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消しゴム事件から受けた寂しさは、さらに弁当事件によって倍加されることになってしまった。
大学の昼休み、仲のよい者どうしがお弁当をもちよって食べる。
私は日本人たちがなかなか距離を縮めようとはしないのを、私の努力が足りないからだと思った。そこで、もっと積極的に自分のほうから距離を縮めていこうとした。


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そこで私は、友だちのお弁当をのぞきこみ、「おいしそうね」といっておかずの一つに箸を伸ばして、ポンと口に入れたのである。
そのとき、彼女は本当に嫌な顔をした。
いあわせた全員からの、明らかに冷たい視線を全身に感じた。
もう私はどうしていいかわからず、下を向いて押し黙ったまま、黙々と弁当を食べるしかなかった。


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韓国での親愛の表現が、日本では他者への配慮を欠いた無神経でずうずうしい態度となってしまう。
韓国では、友だちから「おいしそうね」といわれておかずに箸を伸ばされれば、それはとても嬉しいことなのに、日本では、それは実に無遠慮で勝手すぎる行為なのである。


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日常生活の大部分は無意識の習慣行為から成り立っている。
この無意識のつくられ方が違うところで、それぞれの行為の意味が微妙に違ってくるのだが、「いいこと」と「悪いこと」が正反対となることがある。
日韓の間では、それがとくに多いように思う。


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呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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141106 消しゴム事件 2 

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そういう私に耐えかねたのか、ある日、例のごとく彼女の消しゴムを手に取った私に対して、彼女は明らかにムッとした表情を示した。
なぜそんな顔をするのか、私にはわからない。
無言で絶交をいい渡されたのかもしれないと、いいようのない暗く沈んだ世界に一人取り残された気分に陥ってしまった。
しかしそれは一瞬のことで、彼女はすぐもちまえの笑顔に戻り、冗談話などを仕掛けてくるのだった。


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こんな、何が何だかわからないままの日本人との付き合いが、長い間続いた。
日本では「親しき仲にも礼儀あり」を重んじるが、韓国では逆に「親しき仲には礼儀なし」を重んじる。
韓国では、仲のいい間柄、家族同様の間柄には、距離があってはいけない、それはとても失礼なことなのだ。
私の物はあなたの物、あなたの物は私の物、そうしてこそ、本当に親密な関係といえるのである。


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日本語学校で知り合ったアジア諸国の人々からは、こうした違和感はほとんど感じることはなかったから、「韓国流」に対して「日本流」があろうとは、思ってもみなかった。
そういう自分が浅はかだった。
しかし、あちらも、まさか私の行為が「韓国流正当行為」だとは思いもせず、なんて無神経な人かとイライラしながら、懸命にがまんしていたのに違いない。



陶遊会




  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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141104 消しゴム事件 1 

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大学でとても気の合った日本人の同級生がいた。
彼女とは、いつも授業は隣り合って座り、食事に行くのも買い物に行くのも、トイレに行くのも一緒という仲だった。
にもかかわらず、私はずっと不安な気持ちを抱えていた。


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たとえば、韓国では仲のよい友人とは腕を組んだり手をつないだりして歩くことが多いものだが、私がそうしようとすると、スッと逃げられてしまう。
そのとき、ヒヤッとした冷たい空気だ流れるような気がして、「私のことを嫌っているのでは」と思って彼女をみると、いつものように親しげなニコニコとした顔をしている。
この、「どうもよくわからない」という気分を何とか超えられないものかと思った。


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また彼女は、二人で並んで勉強しているとき、私のほうに彼女のノートや教科書がはみ出していると、「あっ、ごめん」と、自分の手元に戻すのである。
私は「いいよ」というのに、何かそこに二つの世界を区切る境界線でも引かれているかのように、常にはみ出しを気にしているみたいなのだ。


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また、私の消しゴムなどを借りるときにはいつでも、「ちょっと、貸してくれる?」と聞くのである。
返すときも「ありがとう」という。
そのたびに私は、「この人は私のことを本当に友だちだと思っているのだろうか」と不安な気持ちに襲われるのだった。
友だちの間でそんな距離をとるなんて、いったいとういうわけなのか。
親しいと思っているはずの仲間からそうされることが、私にはとても寂しく感じられていた。


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私のほうはというと、彼女の消しゴムが横にあれば、まるで自分のもののように断りもなしに、また「ありがとう」の言葉もなしに、スッと手に取って使っていた。
消しゴムにかぎらず、彼女の筆箱の中のものは鋏でも鉛筆でも、勝手に使っていたのである。
それが韓国では仲のよい友だちどうしでの流儀なのだった。



陶遊会作品




  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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141102 習慣の違いへの生理的な嫌悪感 2 

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たとえば、食事作法の違いである。
韓国ではご飯茶碗を手でもって食べるのは、たいへん行儀が悪いことである。
ご飯もお汁(スープ)も食卓に置いたまま、スプーンですくって食べるのが韓国での食事作法である。


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しかし日本人は、お茶碗を手にもって食べるし、お汁の入ったお椀も手で口に運ぶ。
それが日本の作法だとわかっていても、見知った者に目の前でそうされると、生理的な嫌悪感を抑えることができない。
日本人はなぜそんなふうにするのか、嫌な人たちだ、およそ考えられないことだ、そんなおかしな行為は認めたくない・・・・・・。


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「これが普通」「これが正しい」という習慣感覚は、自分が幼いころから身につけてきた行儀作法の体系に秩序づけられている。
だからその違いを認めなくてはならない。
そんなことはわかっている。


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しかし、それらの習慣には生理的な心地よさや心地悪さの気分がしみこんでいるから、理屈とは別に、どうしても嫌なものは嫌なもの、となるのである。
西洋人ほどの距離があればいい。
外国人だからと客観的にみつめられる。


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しかし、見ただけでは何ら違いのない日本人となると、容易に意識を客観化できないのである。
これは逆に考えれば、日本人は、ご飯茶碗やお椀を食卓に置いたまま食べる私を見て、何と行儀の悪い食べ方なのだろうかと、眉をひそめたに違いないのである。
こうした細かな習慣のズレの体験が積み重なり、日本人に対する違和感がだんだんと大きなカサブタのような煩わしさへと成長していくのである。


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それでも、目に見える違いについては、何とか見よう見まねで「振り」をしながらやっていくこともできる。
が、やがて目に見えない価値観や発想の違いとなると、そう簡単に「郷に入っては郷に従え」というわけにはいかないことがわかってくる。


  

呉 善花 著 私は、いかにして「日本信徒」となったか より抜粋


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