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日常非日常

                                        since'11/02/20

210311 第四の新居 3の1 

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履 歴 稿    紫 影子  


香川県編
 第四の新居 3の1


私が四年生になった春に、私達は第四の家に引越した。
この第四の家は、嘗て私達が住んで居た第二の家から約50米程離れた所に在って、その第二の家から右に行き当った所に門を構えた東向きの家であった。

門を這入った所の左側には亭亭とした五葉の松が1本あって、門から本屋までが、敷石伝いに5米程で玄関になって居た。

また、玄関を這入ると其処は、1坪の土間になって居て、その右側に6畳間があった。
そしてその奥が10畳間の座敷になって居て、父はその10畳間を居室にして居た。

この家の座敷も、第一の家と同じ程度に凝った造作をしてあったが、築庭は縁側から外塀までが5米程しか無かったので、きわめて小規模な庭であった。




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玄関から上った6畳間の左隣が、同じ6畳の茶の間になって居て、その右隣の10畳間が、母や私達兄弟の部屋であった。

また、この家も玄関の土間が一間幅で、そのまま勝手口へ通って居た。

この家の炊事場は、この突き当たった土間に設けられて居たので、台所と称する部屋は別に設けて無かった。

また、勝手口は土間を突当たった左側に在って、外塀との間隔は、ここも5米程しか無かったのだが、勝手口を出た塀ぎわには、無花果と渋柿の木が1本ずつ植って居て、その季節ごとにそれぞれ沢山の実をつけて居た。

無花果が紫色に熟す頃になると、兄と私はそれぞれその実に、これは誰、これは俺と言うように目印をつけておいて、熟した順に自分の目印のついて居るのをもぎ取って食ったものだが、その独特の味が今も私の舌に残って居る。




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また、渋柿も沢山の実をつけるのだが、黄色に熟しても、渋くてとても食えなかった。

併し、枝でブアブアに爛熟をした物は、とても美味かった。

私達兄弟は、毎日のように柿が枝で爛熟するのを待って居たのだが、全部の実がそうなるのでは無くて、その数が、きわめて少数であったことと、烏がその爛熟するのをいつも狙って居たので、その烏に先を越されて、私達にはいくらも食べられなかった。




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210220 八幡神社 2の2 

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履 歴 稿    紫 影子  


香川県編
 八幡神社 2の2


また花車は、それが花柳街の人達であったのかも知れないが、三味や太鼓で賑かに囃したてては威勢の良い若衆に綱を曳かせて、町から町を練歩いては、所所で綺麗な舞姿の娘さん達に舞を披露させて居た。

私が母から貰うお祭りの小遣は、10銭の銀貨が1枚ときまって居たのであったが、私はその10践の小遣を此処で5厘、此処では1銭と言うように、菓子や果物を買食いしながら、終日ダンジリや花車のあとを飽かずにつけ歩いた者であった。

香川県と言う所の氏神には、八幡神社が多かったものか、土器川を挾んだ対岸の土器村にも氏神の八幡神社があった。




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その土器村の八幡神社へ行く道は、渡場通りから直線に土器川へ出た所に架してあった仮橋を渡って行くのであったが、向岸の堤防の道を右へ50米程行った所から左へ曲って、その路傍が一色の水田地帯と言う所を2粁程直線に行った所の正面に、その八幡神社があった。

そして其処は、土器山と呼んでいた山の麓であった。

この土器村の祭典には、御輿を土器川に投げ込んで、とても荒荒しく取り扱って居た。

そうした乱暴な場面をしばしば見た私が、その光景を一度父に話をしたことがあったのだが、その時の父は、「土器の八幡さまは荒神さまなので、そうしなければならないことになって居るんだ」と教えてくれたのだが、当時の私には、その意味は通じなかった。




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香川県一円の祭典では、そのいづれの神社でもきまって獅子舞が、その境内で行われて居た。
そしてその獅子舞は、各部屋ごとに、または各町内ごとに2人の若衆が獅子の頭尾となって、舞の技巧を競うのであった。

それは、私が4年生の秋のことであったが、私は土器川の堤防に生えて居る老松へ登って、その枝に腰を掛けて四辺の景色を見渡すのがとても好きであったので、その日も只一人でその堤防へ出かけて、老松の枝から四辺を見渡して悦に入って居たのであったが、突然土器山の麓からコンコンチキチンと獅子舞の鐘の音が聞えて来た。

「ははぁ、今日は土器の八幡様のお祭か」と気付いたので、私は土器山の麓へじいっと目をやった。




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その日は空に雲一つ無いと言う絶好のお祭日和であったが、社頭から川岸までの間に一定の間隔をとって建ててあった幟が、秋の陽に映えて白くはためいて居た。

私はその日まで土器の八幡神社の祭典と言えば、御輿を川の中へ投込むと言った光景以外には嘗て見たことが無かったので、「よし、一つ見てこう」と急いで老松から降りて仮橋の袂へ走った。

仮橋を渡った私は、駆け足で神社へ行ったのだが、祭典とは言っても、純農村のことであったから、子供達が喜ぶ興業物の催しは何一つ無いと言う淋しいお祭風景であった。

併し、村の子供達は、お互に着飾って、獅子舞の周囲や、綿飴や玩具を売って居る、露天店の前に群って、楽しそうに遊んで居た。







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210113 テキリージ 

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「テキリージ」って?
「take it easy」で
「落ち着け」「落ち着いて」という意味 なんだってー。


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210107 八幡神社 2の1 

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履 歴 稿    紫 影子  


香川県編
 八幡神社 2の1



丸亀市の氏神は、亀山上からは西南方に当る郊外に鎮座して居た八幡神社であった。

その八幡神社が、亀山城からどれ程の距離に在ったかと言うことは判って居ないのだが、亀山城が軍に解放される祝祭日の日に、頂上へ登った私達が、その西南方の方向を見下すと、遥かなる彼方に鎮守の森が見えたのを私は覚えて居る。

それは、何かと封建性の強かった城下町としては一寸不思議なことのように私は今も思って居るのだが、八幡神社が丸亀の氏神さまであると言っても、往時の藩政時代は兎も角として、神社そのものが郊外の田圃の中にぽつんと建立されて居たので、その祭典の日とは言っても、市内の子供達を喜ばす催し物と言う物が一つも無くて、田舎臭い玩具や、駄菓子類を売る露天の店が5つか、6つ出る程度であったから、近郷の農家の子供達にとっては楽しいお祭であったかも知れないのだが、市内の子供達には何の興味も無かったので、祭典の日に神社へ参拝する者は、指で数える程の数でしか無かった。

私もこの丸亀市で、4歳から10歳の春まで育った者であったが、その八幡神社の祭典へ参拝したのは只の一度しかなかった。




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その日の私は、「あんな遠い所へ」と言った気持ちで、とてもじゃないが行きたくなかった者ではあったが、「お前は未だ一度もお参りしたことがないのだろう」と、無理から父に連れられて渋渋ながら参拝をした者であった。

その年代については全全私は知って居ないのだが、生駒と言う大名が亀山城の城主であった時代に、田宮坊太郎と言う孝子が居て、その坊太郎が、この八幡神社の境内で亡父の仇を討ったと言うことが、言い伝えられて居た。
そして、その坊太郎の名が予讃線の丸亀駅前に、”名物坊太郎餅”として残されて居た。

大名時代の祭典には、城主を始め藩士の人達が主体になって、いとも壮厳に取り行われたそうであったが、私達親子が参拝した時には、ポツンと市街から離れて居た関係か、参拝をする人の数も疎らな、それは恰も田舎のお祭風景でしか無かったように覚えている。




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併し、市内では仮装行列、ダンヂリ、花車等が市中を練歩いて、とても賑わって居た。

また仮装行列は城下町と言う特殊性がそうさせるものであったかも知れないが、忠臣蔵の赤穂義士とか加藤清正の虎退治と言った武士の万能時代を装った者が多かった。

当時、私達がダンヂリと呼んでいた物は、四輪の木車の台上に、技巧を凝らした彫刻がしてあったが、一寸小形の御堂を乗せたような感じのする車を、その堂内で囃す鐘の音に拍子を合せた、町内の若衆達が揃いの湯形に鉢巻姿で、綱を曳いて、市中を練歩くのであったが、台上の御堂の四方には、金糸銀糸で刺繍をしてあった、勇壮な豪傑の絵姿が、車の動揺につれて揺れて居たのが、私達少年にとってとても魅力的であった。




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201207 土器川 5の5 

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履 歴 稿    紫 影子  


香川県編
 土器川 5の5


イナと言う魚は、大体海に棲む魚だと私は父に教わって居たのだが、この二番凪と言う所が海に近かった関係で満潮時には海水が逆に這入て来て居た。

したがって凪の水は若干塩辛くなって居た。

そうした満潮時の海水に乗ったイナが、二番凪まで泳いで来ては、石垣の隙間に這入ったものであったらしいと、私は思って居る。

少年の私達には、そうした海水の干満と言うことには、あまり関心が無かったので、その干潮と言う潮の時刻は判って居なかったのだが、いつものように海水に乗って来たイナが石垣の隙間へ這入ろうとして、その石垣の近くで、盛んに飛び跳ねるのを見ては、”ハッ、今が満潮時か”と私達少年は知ったものであった。




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そんなことは、その日が始めであって、また終わりでもあったのだが、とても愉快なことが一度あったが、それは或る日の満潮時のことであった。

それが逆流をして来たその日の海水の関係であったものか、それとも石垣の近くを泳ぐ少年達の数が、あまりにも多かった関係であったのかも知れなかったが、イナの群来が石垣の方へは行かないで、反対側の岸へ集まって来たので、大騒ぎをしたことがあった。

それは、私が脱いだ着物を岸辺の砂上へ置いて、「サァ、這入って泳ごうか」と、水際に立った時のことであったのだが、その水際の浅瀬に背を半分以上も水面へ出した魚の群が、ギコチ無い格好でピチャピチャと泳いで居るのを発見したので、「何だ、この魚は」と、早速手近の一尾を手摑にして見ると、それが、その大きさが20糎程のイナであった。

「こりゃ、うまい物見付けたぞ」と宇頂天に喜んだ私は夢中になって次次と摑んでは、岸辺の砂上へ投げ上げた。




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その時岸辺には私以外の誰も居なかったので、一人ではどうにもならないと思った私は、10尾程を岸辺の砂上へ投げ上げると、両手に摑んだイナを頭上に振りかざして大声で、泳ぎに夢中になって居た兄を呼んだ。

すると、私の声に振向いて、それと気付いた他の連中も兄共共に浅瀬に集まって来た。

「オイ、沢山居るんだから逃げられんうちに、皆で早く摑んで岸へ投上げるんだ。そうして、あとで平均に分配をするんだ」と誰かが言うと、集まって居た一同が、「それっ」とばかりに摑んでは、我れ勝に岸へ投上げた。

石垣で捕る時には蟹に手を俠まれたり、鰻に指を嚙まれたりして、2、3尾程度しか捕れなかったのだが、その日は皆が十尾以上のイナを持って帰る事が出来た。




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