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231115 北海道似湾編 似湾沢9の6

履歴稿
11 /15 2023
IMGR078-23

履 歴 稿    紫 影子  


北海道似湾編
  似湾沢 9の6


 私達が渡船場に着いた時には、渡守の家の灯は消えて居て、既に寝静まって居た。

 「オイ保、お前オヤンヂ(愛奴の大人を和人はそう呼んだ)を起こせよ」と浩治少年に言われた保君は、戸閉りはして無かったので、簡単に玄関を這入って「オヤンヂ」と一声叫
ぶと、そのオヤンヂの渡守は早速起きてきてくれた。

 その時の渡守は、五十五、六歳の合愛奴であったが、その渡守隣が灯した二分芯洋燈の明りに、肩までの総髪は白く光って居た。

「何だお前達か、随分遅かったなぁ。俺はな、お前達が沢の奥さ行って熊に殺られたのでは無いかと心配して居たんだぞ、そしてよ、若しお前達が朝まで帰ってこなければ、お前達の家さ知らせに行こうと思っていたんだぞ。」と言って、早々に私達を向岸へ渡してくれた。




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 私達が神社の前から右に曲がって、浩治少年の家に近づいた時に提灯の灯が三つ学校の坂を降りて来るのが見えた。
 「オイ、あの提灯は屹度俺達を迎えに来た提灯だぞ。あまり遅くなったんだから、俺達は皆叱られるぞ、でも仕方ないもんなぁ、俺達はあまり釣りに夢中になり過ぎたもんなぁ、だから皆で謝るべよ。」と浩治少年が言い終わったかと思うと、「浩治」と提灯の一つが大噶をした。

 その大噶に吃驚をした私が、その提灯の人を見ると、その人は浩治少年のお母さんであった。
 その時、浩治少年がおどおどした声で「ウン」と返辞をすると、「この馬鹿者、今何時だと思って居るんだ、似湾沢と言う所はお前が一番良く知って居る癖になんだ。」とお母さんはきつく浩治少年を叱った。




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 この三つの提灯は、浩治少年のお母さんと、兄さんの閑一さんと言って私の家の前にある郵便局の事務員をして居た人と、私の父であった。
 私の父や、浩治少年のお母さん、そして兄さんと言う三人が、提灯を提げて学校の坂を降って来た原因は、あまりにも私達の帰りが遅いので浩治少年のお母さんが、当時二十歳と言う若さであった閑一さんが起居をして居た郵便局の宿直室へ行って、既に寝て居た閑一さんを呼び起してから、私達四人が似湾沢へヤマベ釣に行って未だ帰らないのだが、途中で何か間違いが起きたのではなかろうかと、相談に行ったのだそうであった。




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 すると、その時の閑一さんが、「何、未だ帰って来ないって。」と言って、枕もとの時計を見ると時計の針が既に午前の零時を少少過ぎて居たので、「お母さん、こりゃ大変なことになったよ、似湾沢の奥へ行くと、熊が棲んで居て沢へは時々出てくるんだそうだからなぁ。兎も角俺はこれから迎えに行ってくる。」と言って、早速曲備付の提灯を点して素足で飛び出したのだそうであった。




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230910 北海道似湾編 似湾沢 9の5

履歴稿
09 /10 2023
IMGR078-15

履 歴 稿    紫 影子  


北海道似湾編
  似湾沢 9の5


 それがどれほど下流へ戻ったかと言うことは、夢中で歩いて居た私には判らなかったのだが、突然、右側の密林から私達が恐れて居た熊がウオッウオッと、咆哮をし始めた。

 そうした熊の咆哮は、必ず木霊してその物凄い、そして無気味な餘韻を渓谷に残すので、この咆哮を聞く度に、私達四人は「また咆えたぞ。」と言って兢々として居たものであった。

 熊の咆哮に、戦々兢々として歩く私達であったから、先頭を歩く者は沢の中に転がって居る木の根株にも熊かと怯え、後方を歩く者はピチャピチャと浅瀬を踏む自分達の足音にも、熊が後から襲うのではないかと怯えろ状態であったから、誰からともなく順番を決めることになって、「オイ、今度はお前が先頭の番だぞ」と言うように交代をしあって、下流へ下流へと四人が必死になって歩いたものであった。




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 それもどれ程の所まで下ったのかと言うことは判らなかったのだが、私達を戦慄させた熊の咆哮も次第に遠のいて、無気味な梟の鳴き声もいつしか消えたのだが、渓流の水苔に足を滑らして幾度となく転倒をした四人は、その全身が濡鼠になったばかりではなくて、岸の木の枝や柴木に顔と言わず手足と言わず、容赦なく引掻れて居たので、見るも無慚な姿になって居たのだから、誰一人として声を出す者もなく、四人はひたむきに歩き続けたものであった。

 「オイ皆、十間橋に着いたぞ。」と、その時先頭を歩いて居た浩治少年が大声で叫んだ。

 それまで、只無我夢中でひたむきに歩いて居た私達は、その大声で叫んだ浩治少年の声に、ハッと意識を呼び戻してホッとしたものであった。

 「オイ、俺達は帰れたな。」と言って保君が、私の肩を叩いたが、「そうだ、俺達は帰れたんだ、そしてそれは確かなことなんだ。見ろよ、そこに十間橋があるじゃないか。」と、思った途端に歓喜の涙が私の頬を濡らして居た。




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 漸く辿り着いたのではあったが、その十間橋から渡船場への道は、もう此処まで帰れば大丈夫と言う安心感が、その咆哮に溪谷で戦いた熊の脅威もそして無気味な梟の啼き声も、今は遠い過去の思出と言った感懐になったものか、私達の四人は、「オイ、熊の咆声もの凄かったな。」とか「梟って奴、薄気味の悪い奴だな」と、無雑作に話しを交わしながら歩いた。

 その溪谷を歩いた時には、私同様泣面で必死になって歩いた筈の浩治少年もそして兄も保君も、すっかり元気づいて、「お前、何回転んだのよ。」とか、「お前が木の枝に打つかった時の悲鳴は半泣だったぞ。」等と言い合ってはドッと笑声が飛び出す私達四人であった。




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230708 北海道似湾編  似湾沢 9の4

履歴稿
07 /08 2023
IMGR078-22

履 歴 稿    紫 影子  


北海道似湾編
  似湾沢 9の4
 

 沢は上流へ登るに従って幅が狭まっていたが、流れが速くなって居たので、溪流の瀨瀬らぎは、ともすれば私達の話から声を奪うことがあった。

 また、その両岸には、楢、楓、桂と言った類の雑木が、連抱の大樹となって、うっ蒼と原始の儘の姿で林立して居るので、強い真夏の陽射しも、その葉裏を縫って、渓流に糸を垂れて居る私達の所までは届かなかった。

 私達四人は、家を出る時から皆が素足であったのだが、その素足でピチャピチャとその溪流をヤマベを釣りながら上流へ歩くのであったが、幾度も沢の岸から岸へ横断をして居た連抱の風倒木を乗り越えて遡らなければならなかった。

 その時の四人の少年の中には、時計を持って居る者は一人も居なかったのだが、その当時の世相としては当然のことであった。

 したがって、その時の私達が時刻を知ろうとする唯一のものは、太陽であった。
しかし、両岸の原始林がその太陽の位置を遮ぎって居るので、私達にはその時刻を知ると言う意識は全く無かった。

 私達兄弟にも、漸く慣れた釣りの技巧で、どうにか保君や浩治少年の域に近づいたので、時の過ぎるのも忘れて、上流へ上流へと夢中になって釣り進んだものであった。




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 ヤマベは、上流へ登れば登る程良く釣れた、したがって、技巧と呼吸の妙に拙ない私達兄弟にも、その釣り上げる数が、次第に多くなって居た。

 勿論、保君や浩治少年は私達兄弟の倍数以上を巧みに釣りあげて居た。

 盛んに餌へ跳ねてくるヤマベ釣りに夢中になって居た私達四人は、もう誰一人として話し合う者とて無く、只両岸のうっ蒼と茂った密林の何処からともなく、ホウ、ホウと聞こえてくる山鳩の鳴き声と、一段と激しくなった瀬瀬らぎの音以外には、静寂そのものと言う、溪谷の情景であった。

 私達四人は、更に上流へ遡ったものであったが、急に四辺がスーッと暗くなったので、「オイ保君よ、急に四辺が暗くなったがこれどうしたのよ。」と、私は彼に尋ねた。
すると、その時浩治少年が慌てた声で、「しまった。」と、私達が吃驚する程の大声で叫んだ。

 「オイ保よ、もう日が暮れたんだぞ、俺達早く帰らんと大変なことになるぞ。」と言ってから、「さぁ、あんた達、釣りを止めて早く竿をちゃんとしな。」と、私達兄弟を促して、テングスを釣竿に巻かした。




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 その時、弘治少年が私達に聞かせた話では、知決辺の道が峠になって居る山脈に陽が沈んだので、四辺が急に暗くなったので、と言うことであった。
そうして夜ともなれば、この沢には熊が出没すると言うことであった。

 私達は早々に帰り始めたのだが、益々度を増す闇色に遡った時には、「何糞、これしきの高さ。」と、威勢良く乗超えた風倒木も帰りには超すことの容易ならぬ障害物であった。

 ひたむきに足を早めた私達四人は、水苔に足を滑らせて水中に転倒をする者、沢へ突き出て居る木の枝に顔を叩かれて、「キャッ」と悲鳴をあげる者が続出して、実に惨めなありさまであった。

 そうした状態の私達四人は、熊に対する恐怖に戦いながらピチャピチャと浅瀬を踏んで下流へ急いだものであったが、釣りに夢中になって登った時には、爽やかな音律で私達の心を弾ませた溪流の瀬瀬らぎも、闇黒の密林から聞こえてくる梟の鳴き声と共に今は、無気味なものに感じて居た私達は、両岸に林立する老樹の葉鳴りにも怯えたものであった。




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230529 北海道似湾編   似湾沢 9の3

履歴稿
05 /29 2023
IMGR075-24

履 歴 稿    紫 影子  


北海道似湾編
  似湾沢 9の3


「さぁ、これから愈々ヤマベ釣りだぞ、だけど餌を取らなきゃならんな。」と言って保君は、橋下の岸一面に生えて居る蕗を引抜いては、其処から蚯蚓を、一匹二匹と摘み出して居た。

 「オイ保、俺達の分も取ってくれよ。」と橋上から浩治少年が叫ぶと、「うん、よっしゃ。」と保君が答えたので、浩治少年と私達兄弟はその儘橋上で休んで居た。

 それは10分程の時間であったと思うが、蕗の葉に蚯蚓を十匹程づつ包んだ物を四個持った保君が、橋上へ帰って来た。

 愈々私達四人は、沢に降りて釣り始めたのだが、浩治少年と保君の二人は、糸を垂れる毎に次々(まま)面白そうにヤマベを釣り上げて居たのだが、ヤマベ釣りの呼吸と技術を全然知らない私達兄弟の針には雑魚ばかりで、ヤマベと言う魚は一尾も釣れなかった。

 沢の水は、三米程の幅で流れて居て、その中央では私の膝頭位までの深さであったのだが、沢の曲がる所や、風倒木が沢を横断して居る所は、水の瀬が其処を溜りにして、私達少年の身丈では足りない程に深かった。




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 兄は熱心に糸を垂れて飽かずに雑魚を釣り上げていたが、私はヤマベが一尾も釣れないので、”つまらないなぁ”という気持ちもあったが、「ヨシ、あれ達の釣方を一つ見てやれ。」と思ったので、沢に垂れて居た釣り糸を揚げて、しばらくの間保君と浩治少年が釣って居る側に寄って、彼等の呼吸や技巧を見て歩いた。

 私達兄弟は、あまり流れの影響が無いよどんだ溜に、餌をつけた釣針を底へ沈めて釣って居たのだが、彼等二人のそれは、餌のついた釣針を瀬の上流へ投げて浮かした儘で流して居ると、その餌にヤマベが跳ねて釣れて居るのであった。

 私はなおも、しばらくの間その二人について歩いたのだが、彼等が浮して流す蚯蚓の餌に、ピチャと音をたてて飛びつく一瞬を巧に捕えて、サッと十糎程釣糸を弛めたかと思うと、ピョンと釣竿の尖端が十糎程跳ねあがるスピードで弛めた糸を張ってから、静かに竿をあげると、その釣針には美しい模様をつけたヤマベが、必ずと言って良いほどぶらさがって居て、ピチピチ跳ねて居た。




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 私は彼等のそうした要領を熱心に見て居たのだが、「よし、彼等のあの呼吸と要領で俺もやって見よう」と思ったので、相も変らずよどんだ溜で雑魚を釣って居る兄の側へ歩み寄って、その一切の話をした、すると「そうか、そうして釣るのか、よし、それなら俺達もこれからやって見ようじゃないか。」と兄が言ったので、私も再び釣糸を垂らして彼等と同じ要領で釣り始めたのだが私達兄弟には、彼等のように百発百中と言う訳にはいかなかった。

 ヤマベと言う魚は、歩きながら釣るものであったから、私達四人も上流へ上流へと歩いた。





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230509 北海道似湾編 似湾沢 9の2

履歴稿
05 /09 2023
IMGR075-22


履 歴 稿    紫 影子  


北海道似湾編
  似湾沢 9の2
 

 池田さんの家は、学校の坂を降った所を流れて居る小沢の土橋を渡った右側に在った。

 私達と一緒に行くと言う池田さんの浩治君は二男坊であったが、当時の似湾には小学校の高等科が無かったので、二十粁程離れた知決辺と言う所の高等科に下宿屋から通学をして居た一年生であった。
そうして、この時の浩治少年は、学校の暑中休暇で帰省をして居たのであった。

 「浩治さん、支度出来たか、皆来たぞ。」と保君が表から呼びかけると、「待って居たんだ。」と言って、私達と同じように腰に弁当を包んだ風呂敷を巻いて、矢張り短い釣竿を持った浩治少年が飛び出して来た。

 四人になった私達は、池田さんの家から一粁程行った所の右側に在る神社の前まで行くと、其処からT字路になって居る道を左に曲がって、更に五百米程行った所に在った、鵡川川の渡船場へ出た。

 渡船場は、こちらの川原から向岸まで、太いワイヤーロープが張られて居て、水面よりも二米程高い向岸の上には、小さな草葺きの家が一軒ポツンと建って居た。

 その向岸の家に向かって「オーイ」と、保君が叫ぶと、中から一人の年老いた男が出て来て岸辺に繋いであった船を、私達の居る川原へ漕ぎ出した。



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 ガーッ、ガーッと川を横断して張ってある太いワイヤロープに、船の軸から掛けてある細いワイヤーロープが、相互の摩擦で一進する毎に軋音を出しながら船は、私達の前に着いた。

 私は川の渡船に乗るのはこの時が始めてであったが、一般の船形とは違って、底の平ったい長方形の船であった。

 私が面白い形の船だなと思って居ると、「この船にはな、馬車も馬も乗せて渡すんだぞ。」と、保君が教えてくれた。

 対岸に渡った私達は、右側の山の裾に在る直線の道を西へ歩くのであったが、この道は隣村厚真村の知決辺と言う所に通じて居て四粁程行った所から、時折熊が出没すると言う峠に向って、左折して居た。

 この左折する所に、通称十間橋と呼んで居た全長十間の木橋が似湾沢に架橋されて居て、私達がこの十間橋の所へ着いたのは、太陽の位置から見て、略正午に近い時刻であった。

 「オイ皆、此処で弁当食うことにするべよ。」と保君が言ったので、「そうするか。」と一同が腰の弁当を開いて、ムシャムシャと食ったのだが、弁当を食べ終ると四人は、其処で一寸休憩をした。

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