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190423 履歴稿 まえがき 

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履 歴 稿    紫 影子


まえがき

凡そ、人と言う人の人生には、各人各様の、さまざまな生きかたがあるのだが、その少年の日に於て、誰もが描く夢と言えば、栄達を果たして社会的な地位を獲得したいと念ずる者と、蓄財に成功しようと志ざす者との二者に尽きると思う。

そうして、その夢を実現しようと思う各人が、各自の全能を、そのことに傾注して努力をするのであるが、その家庭の環境や、人と時と言った、あまねく自分が接触をする一切の条件に恵まれて、身心が共に健全であった場合には、やがてその努力が実って、その成果に於ては大小の優劣があっても、一応社会の成功者として自己満足の出来る人生を過ごし得る者と、言えると私は思う。



併し、健康その他の諸条件のうち、只の一つでも欠けた場合には、唯単に、努力をすると言うことのみでは、その少年の日の夢を実現すると言うことは、なかなかに困難なことであると思う。



併しである、不測の事態が発生して、そうした困難な場合に遭遇をしても、あくまでも自分の夢を捨てずに努力を続ける者は、よしんばその夢を、自らの手で実現をする機会に恵まれなくとも、子孫には、必ず良風を残す結果を生むと思われるので、その人の人生には決して悔は残らないと思う。

しかし、途中でその夢を捨てて挫折をした者は、自暴自棄的な感情に支配されて、自身の堕落はもとよりのこと、その子孫の千載にまで悔を残すことになるであろう。




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昭和43年の2月7日を以て、66歳と言う齢を迎えた私は、人生も既に終りに近づいた者ではあるが、遂ぞ成功者としての資格には成り得なかった、と言っても、少年の日に描いた希望の夢は、今もしっかりと自分の胸に抱いている者である。



私は、明治35年の2月7日に、香川県の綾歌郡加茂村(現在の坂出市加茂町)では、一応、素封家としての列に、その名を連ねて居た家の二男として生まれたのであったが、4歳の時に、その生家が破産をしたので、明治39年の5月に、父母に伴われて同県の丸亀市の土居町に移転をしたのであった。

そして其処では、10歳の春までを一税務署員と言う平凡な家庭の子として育ったのであったが、没落した家運の再興を目標とした父の発意によって、明治45年の4月に、父母と兄そして弟と言った5人の家族が、遥遥、北国の北海道へ移住をして今日に至ったものであるが、自分の将来に私が夢を抱いたのは、この時の移住第一歩の土地であって、胆振の国にある勇払郡の似湾村(現在は同郡の穂別町字栄)に住んだ時代のことであった。



当時、私の描いた夢と言うのは、それを空想と言えば空想と言える類のものであったかも知れないが、”鶏頭となるとも、竜尾となるなかれ”と言った気魄の栄達慾に燃立って居た、併しその終局の目標としては、”何か社会に裨益するものを書き残したい”と言うことを念願して居た者であった。




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その後の私は、現在までに居を変えること20回、そして職を変えることが4度と言うような激しい変転をした者ではあったが、嘗て少年の日に描いた自分の夢を、あくまでも貫徹しようと言う意志には、聊かな変化も無かったので、或時代には弁護士たらんとして、又或時代には政治家たらんとして勉学に之努めた者ではあったが、その当時の義務教育であった尋常科6年の学業を卒えた後は、その勉学の一切を独学に因らなければならないと言う境遇の私であったから、当然、無理に無理を重ねなければならなかったのだが、私は決してめげなかった。

併し、そうした無理の累積が、やがてそれは徐徐にではあったが、私の健康を虫食んでいった。



また、人生の明暗に大きな関係を持って居る配偶者も、26歳に始まった結婚が、2人は合意離別、2人が死別、そして現在では5人目の妻と生活をして居ると言った状態であるから、66年と言う長い年月を、少年の日の夢を抱いて只ひたすら歩き続けた自分の人生を、今日振返って見ても、幸福な人生であったとはとても思えない、と言うのが偽らざる現在の心境である。

併し、そうした私ではあっても、まだ少年の日に描いた夢を捨てようとは思って居ない。

と言うことは、”何か社会に裨益するものを書残したい”と言う終局の目標がまだ残って居るからである。




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この”履歴稿”は、私のそうした執念が書かしたものであって、その内容は、表題が示して居るように、私の人生記録である。

したがって、それを言うならば、私の自叙伝であるのだが、従来活字になって居る自叙伝と言えば、数少ない立志伝中の人か有名人と言った人人のものに限っているのだが、それ等の人人は、いずれも人生の勝利者の座に在る人人と言う関係もあって、一般庶民の我我が直接身近に感じ取れるものが少ないように思われるので、勝利者の座に在る人人とは反対に、生家が破産をしたことによって始まった逆境の中を、少年の日に描いた夢を実現しようと、只ひたすらに歩き続けたものではあったが、遂に実らなかったと言う、それを言うならば、人生の落伍者の座にあるとも言える私は、この”履歴稿”を、一般庶民の人人が身近に感じ取って明日の参考になったならばと思って起稿をしたものである。

しかし、その効果が果たしてどうかと言うことは、読む人人の判断に委ねるしかないのだが、幸い多くの人人に本稿が読まれたならば、”何か社会に裨益するものを書残したい”と言う終局の目標を果たすことになるので、私はとても嬉しい




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Nikon FA


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190411 収奪されたのは朝鮮人ではなく日本人 

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第4章 日韓相互理解への道
 
  2︎⃣ 事実を踏まえて大局から歴史を見つめる

   収奪されたのは朝鮮人ではなく日本人


GHQ(連合軍総司令部)の調査によると、日本が朝鮮半島に残した資産総額は政府、軍、法人、個人資産合わせて59億4千万ドル、現在の価値に換算すると16兆9千3百億円となります。

これがほぼ韓国側と北朝鮮側に半額ずつ残されたのです(産経新聞朝刊2002年9月13日付)。

これは当時の日本の国家予算の2年分以上に当たります。

日軍事資産の合計は53億ドルであり、このうち個人資産だけを見ると、朝鮮引揚同胞世話会(会長・穂積真六郎)が1947年(昭和22年)に作成した「在朝鮮日本人個人財産額調」によれば、終戦時、朝鮮半島における「畑」は約270万町、「水田」が約170万町であり、うち日本人所有は「畑」が13万6千町(約5%)、「水田」が27万8千町(約16%)となっており、日本人が個人的に所有していた土地の総額を当時の価格で67億8千25万円と算出しています。

さらに預貯金も含めると約257億円であり、現在の価値でなんと4兆9千万円にもなります(産経新聞朝刊2003年2月24日付)。

これらは、日本人個人が朝鮮で汗水垂らして働いて蓄えた資産だったのです。

しかし、終戦と同時にこれらの全ては没収されてしまいました。




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1965年(昭和40年)に締結された日韓基本条約で、本来であれば日本に返してもらわねばならない資産を、日本は個人資産まで全て放棄し、その上でさらに無償3億ドル、有償2億ドルの援助を韓国に対して行いました。

当時の日本の外貨準備高は18億ドル、韓国は1億3千万ドルでした。

この時期の5億ドルが両国にとって、巨大な金額であったことがわかると思います。

朝鮮統治を大局的に見た場合、統治期間中、日本人は内地においても半島においても巨額の税金を朝鮮のために負担し、統治終了時には投資した工場はおろか個人の資産に至るまで、すべての日本資産が剥奪されたのです。

日本による朝鮮統治を振り返れば、収奪されたのは明らかに日本人だったのです。


松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃


撮影機材
Nikon FA



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190324 朝鮮統治は日本側の大幅な持ち出しだった 

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第4章 日韓相互理解への道
 
  2︎⃣ 事実を踏まえて大局から歴史を見つめる

   朝鮮統治は日本側の大幅な持ち出しだった


第2章で、日本政府の持ち出しが20億円(現在の価値で63兆円)であり、現在の価値で1日あたり45億円の日本人の税金が朝鮮半島に注ぎ込まれたことを書きました。

これは国家予算の10%以上、多いときでは20%に達しました。

つまり、日本人の血税の10%以上、時には20%が「朝鮮支援金」として朝鮮半島に注がれたのです。

消費税5%どころの騒ぎではありません。




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東京書籍など日本の歴史教科書には、「日露戦争後も軍備の拡張が進められ国民の負たんは軽くならなかった」とあり、戦前は軍事費の負担が高く国民は重税に苦しんだように書いてありますが、国防費なら日本だけではありません。

どこの国でも負担しています。

日本人が重税に苦しんだのは、朝鮮半島近代化支援のためでした。

そして、これらのお金は次に述べるように、大東亜戦争終結時、すべて朝鮮側の「もらい得」となったのです。




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ちなみに、併合後10年間、朝鮮人は所得税を免除されており、この間、朝鮮半島では日本人がその分、高額の所得税を払って朝鮮財政を支えました。

また、1941年(昭和16年)における朝鮮の租税全体を見た場合、都市部で在朝鮮日本人が平均425円であったのに対し、朝鮮人は65円でしかありませんでした。

日本統治期間、朝鮮人は日本人の7分の1の税金で道路、鉄道、教育、その他日本人と全く同じ公共サービスを享受したのです。

日本人の税負担がいかに大きかったかお分かりでしょう(中川八洋『歴史を偽造する韓国』徳間書店)。

松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃


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190309 どこの国が植民地にこれほどの教育を施したか 

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第4章 日韓相互理解への道
 
  2︎⃣ 事実を踏まえて大局から歴史を見つめる

  どこの国が植民地にこれほどの教育を施したか


朝鮮総督府は法曹界の人材も育成しました。

『朝鮮総督府施政年報 昭和16年版』(国立国会図書館蔵)には、「大正10年12月弁護士規則を改正し(中略)朝鮮弁護士試験規則を発布し、広く内鮮人より適材を簡抜し、よって人権擁護の責務をまつとうせしむることとせり」という記載があります。

内地人も受けることができましたが、朝鮮半島で活動するため受験者・合格者ともに大部分は朝鮮人でした。

朝鮮総督府は朝鮮人が弁護士として、内地の日本人弁護士と同等の資格をもって朝鮮人の人権を擁護できる制度を創設したのです。

多くの朝鮮人が最高学府の学問をきわめ、次々に優秀な弁護士や判事が法曹界に巣立ち、朝鮮人官僚も増え、教育界にも優秀な先生が多数輩出され、産業界のいろいろな分野で朝鮮人が活躍をはじめました。



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一体、どこの国が植民地の民にこれほどの教育を施すでしょう。

下手に教育すれば、自分たちへの抵抗勢力を自分たちで「養成」する結果を招くだけです。

ところが、日本人は「性善説」に立って必死になって人的資源を育てたのです。

この人的資源があったからこそ、戦後「漢江の奇跡」と呼ばれるめざましい経済と社会の発展がありました。

資源を奪ったどころか、国家にとって何より大切な人的資源を日本は育てたのです。



松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃



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Nikon FA



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190207 大阪や名古屋よりも先に京城で帝国大学をつくった 

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第4章 日韓相互理解への道
 
  2︎⃣ 事実を踏まえて大局から歴史を見つめる

  大阪や名古屋よりも先に京城で帝国大学をつくった


大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも早い1926年(大正15年=昭和元年)に、京城帝国大学が設立されました。

京城帝大の内地人と朝鮮人の卒業者数は、1929年から1943年までの累計で見ると法文学部 日本人572・朝鮮人387、医学部 日本人647・朝鮮人237で、朝鮮人の割合は法文学部で40%、医学部でも27%を占めています。

併合当時、朝鮮人の人口は日本列島と朝鮮半島の人口を合わせた総人口の21%、1943年現在でも25%であり、内地からも多くの受験生が押しかけたことを勘案すれば、朝鮮人の卒業生の割合は決して少なくありませんでした。



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各分野の専門家を育てるために、総督府は朝鮮各地に次の専門学校(単科大学)を設立しました。

〈京城医学専門学校、京城高等工業学校、京城法律専門学校、京城高等商業学校、京城鉱山専門学校、釜山高等水産学校、水原高等農林学校〉

また、教師を養成するための師範学校を全国22カ所に設立しました。

これらの学校は、そのほとんどが現在も名前を変えて存在しています。



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松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃



撮影機材
CANON AF35M






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