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                                        since'11/02/20

190602 香川県編 私の生家 

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香川県編

私の生家


私の生家は、300年の歴史をもった郷土の旧家であって、明治維新前の幕政時代には、苗字帯刀を許されて居た家柄であったと私は父から聞かされて居る。

また、藤原源氏の末裔であるとも父は言って居た。

私が生家で育ったのは、僅か4歳の春までと言う極めて短い期間、それも幼い時代なので判然とした記憶は無いのだが、郷土の人人からは三町屋敷と呼ばれて居た生家が、四方に白壁の塀を廻らしてあって、俗に歌舞伎門と称して居た、武家屋敷のそれと同じ構造の門が東側にあったのを覚えて居る。

そしてその門をくぐると、右側に廐舎があって、其処には栗毛の駒が一頭飼われて居た。

また左側には、長屋門と称して居た二階建の木造が一棟あって、その二階には、平常あまり使わない諸道具類を、そして階下には家族持ちの使用人を住まわせて居た。

廐舎は1米程、そして長屋門が約2米程外塀から間隔をおいて建てられ居て、長屋門の裏には、若松や椿と言った庭木が植えてあった。




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表門から母屋の玄関へは、敷石伝いで可成り隔たって居たが、今にして想えば、30米程ではなかったかと想像して居る。

私は、母屋の間数が幾部屋であったかと言うことは、今に知らないのだが、東西に襖で仕切った二つの座敷が北端にあって、その双方の座敷の縁側から外塀までが、いずれも庭園になっていたことを私は覚えて居る。

併しこの隣合った座敷の広さについては、後日母から教わったのであるが、各各畳を20枚ずつ敷いてあったそうである。

また、表門を這入った所が可成りの広場になって居て、長屋門の北端から母屋の座敷南端へ直線に、外塀と同じ白壁造りの土塀を設けてその広場と、座敷の庭園とを仕切ってあった。

この南側に仕切られて居た広場が、どれ程の広さであったかと言うことは判って居ないのだが、その広場でよく凧揚げをして遊んだことを私は覚えて居る。

東と西に別れた二つの庭園は、東側が松の木を主体に自然林の趣きで造られていて、天然に芽生えた若松の群れに、連抱の老松が、此処や彼処で覆い被されるように枝を拡げて、うっ蒼と茂って居た。




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また、そうした松の木の外に、紅葉の木と椿の木が数本と、樹齢が百年を越えていたと言う。

山桃の木も1本あったが、小鳥の群が毎日のように集まっては、その老樹の枝から枝へ囀って居た。

私はまだ幼かったので、季節感と言うものは無かったが、老松の葉裏を縫った陽射に、若松の群が明るい緑となって、紅の紅葉を、そして紅白の椿の花を、その緑の中に浮かせていたことも、その葉陰に、枝もたわわに実らせた真紅の実を、そうした陽射に浴させていた山桃の老樹を、”とても美しいなあ”と思ったことも私は覚えて居る。

また、西側の庭園と言うのは、庭師の手に成ったものであって、縁側から1米程の所には、可成に大きい泉水があった。

そしてその泉水の向側には、趣向を凝らした築山があって、その築山には庭師の手に成ったさまざまな枝振の松が、椿やツツジを混じえて、雅趣に富んだ配置で植えられていた。

その泉水には雅趣に富んだ調和で配分してあった。

巨岩巨石の類はすでに苔むして居たが、延長20米程の瓢箪形であって、その中程の狭ばまった所には、半円の弧を描いた大橋が架かって居た。




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また、その大鼓橋を渡った所には、苔むした石灯籠があって築山には、風流なあづま家が在った。

そして黄昏時ともなれば、菜種油を使って、その苔むした石灯籠には灯がともされて居た。

大鼓橋橋畔のそうした雅趣と、四季それぞれに趣を変える築山の風情を水面に浮かべた泉水には、大小の真鯉緋鯉が入まじって、終日、百態を演じて遊泳して居た情景には、幼いながらもしばし恍惚たらしめられるものがあった。

東の庭から西の庭へは、座敷の北端と外壁との間が2米程の芝生地帯になって居たので、自由に往来することが出来た。

また、その芝生地帯には、紫雲英や蒲公英が、その季節ともなれば綺麗な花を咲き競って居た。




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西側の座敷から縁伝いの隣室が祖父の居間になって居て、私達親子の居間は西側の外壁から1米程離して南北に建って居た6畳二間の平屋造りであって、俗に其処を部屋と称して居た。

私達親子の居間と母屋とは、部屋の北端から祖父の居間の南端へ直線に幅が約1米程の廊下でつながって居て、西側の庭園をその廊下が仕切って居た。

またその廊下には、左も右も共に上部の70糎程が全区間を吹抜と言った構造になって居たので、その吹抜になっていた所からは、南北双方の景色を眺望することが出来るようになって居たことも私は覚えて居る。

その廊下によって西側の庭園と二つに仕切られていた私達親子の住んでいた部屋と、母屋との間にあった空地にも、家人が、之れならばと言う自信の元に適当に配分をしたものではあったと私は思って居る者であるが、そうした家人の手によって植えられた松の木やツツジの木を一段と高く離した藤棚のあったことも私は覚えて居る。

そしてその藤棚の一株が、間(まま)花(開花?)の季節ともなれば、そよ吹く風に、その藤の花が持っている特徴を存分に生かそうと思って作ったであったろう棚の上から、紫色の花房を垂れ下げてユラユラと揺れている風情を、”とても綺麗だなあ”と幼いながらも思ったことの記憶は、今に残って居る。

以上が私の、生後4歳までを育ったせいかに関する記憶の主たるものである。



撮影機材
Nikon FA
Nikon Mew FM2


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190520 Canon PIXUS iP4700 どーしてそんなにおそいのか 

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私のプリンターはCanon PIXUS iP4700 なのですが、

印刷速度が遅いのです。
印刷が始まるまでの時間が長いのです。

動画を見てみてください。
https://youtu.be/2dk7S2Mqrhc



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190429 香川県編 出生・私の父・私の母・父と素人芝居 

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香川県編

出生


私の出生を、父はその履歴稿に
1、明治35年2月7日午前7時、男子(二男)出生、義章と命名す。
産婆、鴨の庄の住、藤井時蔵の妻・ムメ
と記録している。




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私の父

私の父は長男であって、その出生を履歴稿に、
1、明治9年1月11日、綾歌郡加茂村字鴨232番戸に生る。
父 小三太  母 コムメ
と記録している。
注・加茂村は現在の坂出市加茂町

父は明治25年の3月28日に、現在は市政であるが、その当時は町政であった香川県坂出高等小学校を卒業して、その年の5月に愛媛県尋常中学校(別に校名があったろうと思うが、父の履歴稿には、このように記録していある)に入学したのだが、翌26年の2月に中途退学をしている。

父は、その中途退学の理由を、病弱であった慈母の病状が悪化したので呼び戻されたので、事情止むを得ないものがあったのだが、その当時は残念でたまらなかったと、その当時を回想しては、時折、私達子供等に聞かせていた。

中途退学をして帰郷をした父が、母と結婚するまでの履歴稿には、つぎのような事項が記録されている。

1、明治26年4月、天満宮に於て郷友と共同し、素人芝居を奉納す。自分その俳優の1人たり。
1、同年5月、氏神祠前に於て、右芝居を方のせり。
1、同年7月30日(旧6月18日)、慈母永眠されたり。
1、明治27年4月6日より、加茂村尋常小学校に教員として奉納す。
1、同年5月31日(旧4月27日)妻を娶る。




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私の母

私の母は明治10年生れの人であって、讃岐富士と称されて居る飯野山の麓に近い、綾歌郡法勲寺村と言う所に店舗を構えて、肥料問屋を営んで居た福井家の長女であったが、その資性は、温厚貞淑な人格の中に、強い忍耐力と克己心の持主であった。




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父と素人芝居

父は7歳の時から大学に始まった四書五経と言う漢学を学んだ、と言うことを、その履歴稿に記録をして居るが、その影響によったものか、性格がきわめて謹厳且実直な人であった。

しかしその面、生花と茶の湯の免許を持って居て雲溪と号して居た。

また、琴、三味線、尺八と言った音曲にも長じて居て、訪問客と盃を交す酒宴の席で、尺八の吹奏をしたり、口三味線や手拍子に合せて舞い踊る父の姿を、少年の日の私はしばしば見ている。

そうした父が、郷友と共演をしたと言う奉納芝居の役柄は、富士の裾野で仇討をした、曾我十郎の役であったらしかった、と言うことは物心ついた5、6歳頃からの私は、自宅で催した酒宴の席で、宴が酣ともなれば、来訪の友人達から「春駒の兄弟を是非」と言って所望されると、千鳥足の父が、十郎の所作と声色で宴席を賑わして居たことが、未だに判然と私の記憶に残って居る。

とにかく私の父と言う人は、謹厳実直であった反面に、巷間俗に言う通人でもあったらしかった。



撮影機材
Nikon FA


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190423 履歴稿 まえがき 

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履 歴 稿    紫 影子


まえがき

凡そ、人と言う人の人生には、各人各様の、さまざまな生きかたがあるのだが、その少年の日に於て、誰もが描く夢と言えば、栄達を果たして社会的な地位を獲得したいと念ずる者と、蓄財に成功しようと志ざす者との二者に尽きると思う。

そうして、その夢を実現しようと思う各人が、各自の全能を、そのことに傾注して努力をするのであるが、その家庭の環境や、人と時と言った、あまねく自分が接触をする一切の条件に恵まれて、身心が共に健全であった場合には、やがてその努力が実って、その成果に於ては大小の優劣があっても、一応社会の成功者として自己満足の出来る人生を過ごし得る者と、言えると私は思う。



併し、健康その他の諸条件のうち、只の一つでも欠けた場合には、唯単に、努力をすると言うことのみでは、その少年の日の夢を実現すると言うことは、なかなかに困難なことであると思う。



併しである、不測の事態が発生して、そうした困難な場合に遭遇をしても、あくまでも自分の夢を捨てずに努力を続ける者は、よしんばその夢を、自らの手で実現をする機会に恵まれなくとも、子孫には、必ず良風を残す結果を生むと思われるので、その人の人生には決して悔は残らないと思う。

しかし、途中でその夢を捨てて挫折をした者は、自暴自棄的な感情に支配されて、自身の堕落はもとよりのこと、その子孫の千載にまで悔を残すことになるであろう。




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昭和43年の2月7日を以て、66歳と言う齢を迎えた私は、人生も既に終りに近づいた者ではあるが、遂ぞ成功者としての資格には成り得なかった、と言っても、少年の日に描いた希望の夢は、今もしっかりと自分の胸に抱いている者である。



私は、明治35年の2月7日に、香川県の綾歌郡加茂村(現在の坂出市加茂町)では、一応、素封家としての列に、その名を連ねて居た家の二男として生まれたのであったが、4歳の時に、その生家が破産をしたので、明治39年の5月に、父母に伴われて同県の丸亀市の土居町に移転をしたのであった。

そして其処では、10歳の春までを一税務署員と言う平凡な家庭の子として育ったのであったが、没落した家運の再興を目標とした父の発意によって、明治45年の4月に、父母と兄そして弟と言った5人の家族が、遥遥、北国の北海道へ移住をして今日に至ったものであるが、自分の将来に私が夢を抱いたのは、この時の移住第一歩の土地であって、胆振の国にある勇払郡の似湾村(現在は同郡の穂別町字栄)に住んだ時代のことであった。



当時、私の描いた夢と言うのは、それを空想と言えば空想と言える類のものであったかも知れないが、”鶏頭となるとも、竜尾となるなかれ”と言った気魄の栄達慾に燃立って居た、併しその終局の目標としては、”何か社会に裨益するものを書き残したい”と言うことを念願して居た者であった。




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その後の私は、現在までに居を変えること20回、そして職を変えることが4度と言うような激しい変転をした者ではあったが、嘗て少年の日に描いた自分の夢を、あくまでも貫徹しようと言う意志には、聊かな変化も無かったので、或時代には弁護士たらんとして、又或時代には政治家たらんとして勉学に之努めた者ではあったが、その当時の義務教育であった尋常科6年の学業を卒えた後は、その勉学の一切を独学に因らなければならないと言う境遇の私であったから、当然、無理に無理を重ねなければならなかったのだが、私は決してめげなかった。

併し、そうした無理の累積が、やがてそれは徐徐にではあったが、私の健康を虫食んでいった。



また、人生の明暗に大きな関係を持って居る配偶者も、26歳に始まった結婚が、2人は合意離別、2人が死別、そして現在では5人目の妻と生活をして居ると言った状態であるから、66年と言う長い年月を、少年の日の夢を抱いて只ひたすら歩き続けた自分の人生を、今日振返って見ても、幸福な人生であったとはとても思えない、と言うのが偽らざる現在の心境である。

併し、そうした私ではあっても、まだ少年の日に描いた夢を捨てようとは思って居ない。

と言うことは、”何か社会に裨益するものを書残したい”と言う終局の目標がまだ残って居るからである。




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この”履歴稿”は、私のそうした執念が書かしたものであって、その内容は、表題が示して居るように、私の人生記録である。

したがって、それを言うならば、私の自叙伝であるのだが、従来活字になって居る自叙伝と言えば、数少ない立志伝中の人か有名人と言った人人のものに限っているのだが、それ等の人人は、いずれも人生の勝利者の座に在る人人と言う関係もあって、一般庶民の我我が直接身近に感じ取れるものが少ないように思われるので、勝利者の座に在る人人とは反対に、生家が破産をしたことによって始まった逆境の中を、少年の日に描いた夢を実現しようと、只ひたすらに歩き続けたものではあったが、遂に実らなかったと言う、それを言うならば、人生の落伍者の座にあるとも言える私は、この”履歴稿”を、一般庶民の人人が身近に感じ取って明日の参考になったならばと思って起稿をしたものである。

しかし、その効果が果たしてどうかと言うことは、読む人人の判断に委ねるしかないのだが、幸い多くの人人に本稿が読まれたならば、”何か社会に裨益するものを書残したい”と言う終局の目標を果たすことになるので、私はとても嬉しい




撮影機材
Nikon FA


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190411 収奪されたのは朝鮮人ではなく日本人 

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第4章 日韓相互理解への道
 
  2︎⃣ 事実を踏まえて大局から歴史を見つめる

   収奪されたのは朝鮮人ではなく日本人


GHQ(連合軍総司令部)の調査によると、日本が朝鮮半島に残した資産総額は政府、軍、法人、個人資産合わせて59億4千万ドル、現在の価値に換算すると16兆9千3百億円となります。

これがほぼ韓国側と北朝鮮側に半額ずつ残されたのです(産経新聞朝刊2002年9月13日付)。

これは当時の日本の国家予算の2年分以上に当たります。

日軍事資産の合計は53億ドルであり、このうち個人資産だけを見ると、朝鮮引揚同胞世話会(会長・穂積真六郎)が1947年(昭和22年)に作成した「在朝鮮日本人個人財産額調」によれば、終戦時、朝鮮半島における「畑」は約270万町、「水田」が約170万町であり、うち日本人所有は「畑」が13万6千町(約5%)、「水田」が27万8千町(約16%)となっており、日本人が個人的に所有していた土地の総額を当時の価格で67億8千25万円と算出しています。

さらに預貯金も含めると約257億円であり、現在の価値でなんと4兆9千万円にもなります(産経新聞朝刊2003年2月24日付)。

これらは、日本人個人が朝鮮で汗水垂らして働いて蓄えた資産だったのです。

しかし、終戦と同時にこれらの全ては没収されてしまいました。




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1965年(昭和40年)に締結された日韓基本条約で、本来であれば日本に返してもらわねばならない資産を、日本は個人資産まで全て放棄し、その上でさらに無償3億ドル、有償2億ドルの援助を韓国に対して行いました。

当時の日本の外貨準備高は18億ドル、韓国は1億3千万ドルでした。

この時期の5億ドルが両国にとって、巨大な金額であったことがわかると思います。

朝鮮統治を大局的に見た場合、統治期間中、日本人は内地においても半島においても巨額の税金を朝鮮のために負担し、統治終了時には投資した工場はおろか個人の資産に至るまで、すべての日本資産が剥奪されたのです。

日本による朝鮮統治を振り返れば、収奪されたのは明らかに日本人だったのです。


松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃


撮影機材
Nikon FA



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