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171009 春を越せずに餓死した李朝時代の農民 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

 春を越せずに餓死した李朝時代の農民



李朝末期における朝鮮農民の生活は悲惨でした。

これは両班や官吏による農民からの収奪が一番の原因ですが、農民としても作れば作っただけ持って行かれるため、「作る気力」すら失い、春先に食べるものがなくなれば草を嚙み、木の根をかじって飢えをしのいでいました。

この時期を「春窮」といい、毎年多数の餓死者が出ていました。

『朝鮮総督府施政年報 昭和16年版』(国立国会図書館蔵)も次のように記述しています。

「併合前の多年の秕政(悪政)による結果はついに自暴自棄・安逸遊惰の性格を馴致し(なれて)彼我相俟って(それらがいろいろ合わさって)農村窮乏の重大原因を為すに至れる」(( )内は著者)



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この悲惨な朝鮮農民の生活改善こそが、朝鮮総督府の施政の最大の目標だったと言っても過言ではないでしょう。

1920年(大正9年)より1937年(昭和12年)まで朝鮮殖産銀行の頭取を務めた有賀光豊は、朝鮮農業改革に力を入れ、彼の建議に基づいて、1926年(大正15年)に「朝鮮産米増殖計画」が施行されました。

この計画は1926年より12年間で35万町歩の土地改良を行うことを目標としており、これによって年額82万石の米の増殖を図り、一部朝鮮内の消費に充当し、多くを日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにするのが目的でした。

この計画に必要な経費見積は2億8千5百万円であり、そのうち6千5百万円を日本政府より直接補助し、残りは政府斡旋による低利資金の借り入れと民間からの資金調達によることが決まりました。

資金調達をまかされた有賀光豊は大蔵省との折衝に奮闘し、また日本の民間投資家に朝鮮の土地改良事業の有望性を説いて回り、多くの日本人の協力を得て計画は軌道に乗りました。



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併合当初、朝鮮の水田はその80%が天水に依存しており、池やダムなどの水利施設は全くありませんでした。

この計画により灌漑設備を備えるなどの改良が進み、最終的に70%以上の水田が天水に依存せずにすむようになりました。

「天水田」に灌漑用水が満々とたたえられるのを見た当時の朝鮮農民の喜びようは、それこそ大変なものでした(呉善花『生活者の日本統治時代』三交社)。

有賀が中心となって進めた「朝鮮産米増殖計画」では、このような土地改良のみに止まらず、肥料改良、種まきの方法、品種の改良など農業全般にわたる改良が行われ、この計画の進行に伴って朝鮮農業は飛躍的に発展したのです。




松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃




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Canon AF35M




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170919 地獄から天国に変わった刑務所 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

 地獄から天国に変わった刑務所


日韓併合当時の朝鮮の監獄は、信じられないほど不潔で残酷な者でした。

手かせ足かせに首かせまでさせられ、寝る時も体の自由がなく、罪人は次第に憔悴していきました。

手かせ足かせなどは殺人、強盗、脱走犯などの重罪人に対して行うことになっていましたが、実際には賄賂の有無で決まってしまいました。

食べるものは雑穀のみ、さらに監獄自体が非常に狭く、1920年から22年まで総督府監獄課長だった柿原琢郎の回想では、併合直前の監獄は一坪に15、6人押し込む有り様で、寝るのも交代で寝ていたとのことです。

国分三亥こくぶさんがい(1908年旧韓国の検事総長)も、「獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のようであり、乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました」と語っています(中川八洋『歴史を偽造する韓国』徳間書店)。

糞尿のにおいが充満し、それこそ地獄だったでしょう。



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このような事情を朝鮮総督府『施政25年史』(国立国会図書館蔵)では、次のように記録しています。

「併合前後の監獄は舊韓國時代に在りて最も顧みられなかったものの一つで、その内部の不潔、不整頓竝びに罪囚取扱の残酷なることは彼の李太王の初年に投獄せられた佛國宣教師ベルヌーの日記を見ても、一読膚毛の粟立ちするを禁じ得ないものがある」

これが当時の実情だったのです。

ここでまた『朝鮮独立運動之血史』の内容を紹介しておきます。

朴殷植は日本統治時代の監獄について、こう書いています。

「監獄において毎日1回、両親指をきつく縛り天井にかかっている鉄鉤にその縄の端をかけ人を空中にぶら下げて拷問した」

「監房の容積は一坪に囚人5人の定員になっていたが現実には一房15人から50人を収容し、そのために収容者は座ることも寝ることもできないで、皆起立したまま日夜を過ごした。(中略)囚人の多くは、このような虐待に耐えられなかった。死亡者はほとんど栄養失調からくる病弱死が多かった」



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一読しておわかりでしょう。

前者はシャルル・ダレが書いている李氏朝鮮時代の吊り拷問であり、後者は柿原琢郎が呆れ果てた大韓帝国の監獄の実態そのものです。

朴殷植は『朝鮮独立運動之血史』で、大韓帝国時代まで続いていた地獄のような監獄をそのまま日本統治時代の監獄として描くことで、日本への憎悪を煽っているのです。

実際には、朝鮮総督府はこのような「地獄の監獄」を人道的な日本の刑務所並みにするために大変な努力を払いました。

前述のように拷問も禁止されています。

1912年には、30万円(現在の価値で百億円以上)をかけて作られた清潔で近代的な京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)が完成。

旧監獄から移された受刑者にとっては、スペースも広く、運動場もあり、食事も満足に食べさせてもらえる日本式の刑務所に移って「地獄から天国」に移った思いだったでしょう。



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1919年からは、斉藤総督のもとでさらに刑務所の近代化と拡張が行われ、監房のスペースも一層改善されました(中川八洋『歴史を偽装する韓国』徳間書店)。

日本の統治によって朝鮮の残虐な拷問や刑罰は廃止され、地獄の牢獄も無くなりました。

このように、日本は近代的司法制度を朝鮮に導入して人命と人権が尊重される安定した社会を作り上げたのです。

命を奪ったなんてどうして非難されなければならないのでしょう。





松木国俊 著 ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った! から抜萃




撮影機材
Canon AF35M




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170911 朝鮮伝統の笞刑をすぐに廃止しなかった理由 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

    朝鮮伝統の笞刑をすぐに廃止しなかった理由


1910年の日韓併合に伴って朝鮮にも日本と同様の刑法が適用され、残酷な刑罰は一掃されました。

ただし、笞刑のみはしばらく継続したため、これを取り上げて「日帝の残虐さを示すもの」と韓国は宣伝しています。

しかし、笞刑はもともと李氏朝鮮から続いていた刑罰であり、3尺5寸、厚みは2分7厘の笞で罪人の尻を打ち据えるものでした。

これで打たれたらたまりません。

一発で皮膚が破れ、血が飛び散るほどの威力があったそうです。



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日韓併合後、1912年に朝鮮総督府では「笞刑令施行規則」を定めて、女性や16歳未満の男子への鞭系を禁止しました。

また笞そのものも長さ1尺8寸、厚みは2分5厘として、痛みを朝鮮笞刑より数分の1に下げるとともに、執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定められました。

笞刑が併合当初、成人男子に対して継続されたのは、日本の罰金や懲役刑をそのまま適用すると、朝鮮の人々の一部は生活できなくなることが想定されたからでした。

当時は数円の罰金ですら家屋敷や財産の全てを失うことになる人も多く、数日でも働き手が刑務所に入ると家族が飢餓に瀕するケースも想定されました。



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したがって、笞刑の痛みを軽くするとともに「罰金1円が1笞、懲役1日が1笞」に換算する旨が「施行規則」に明記されていました。

貧しい朝鮮人犯罪者への温情処置だったのです(中川八洋『歴史を偽造する韓国』徳間書店)。

しかし、次第に朝鮮人の所得レベルも向上し、肉体へ苦痛を与える刑罰制度を継続することが問題視されるようになったため、笞刑は1920年に廃止されて、日本人と朝鮮人は全く同じ法律が適用されることになりました。



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その時の事情が、朝鮮総督府『施政25年史』(国立国会図書館蔵)に、次のとおり記録されています。


「笞刑は古來朝鮮において廣く適用せられ民度に適合する刑罰であるという理由で明治45年4月内鮮外人に對する刑事法規を整理統一するに當っても暫く舊制を踏襲して朝鮮人の微罪に對する制裁としてこれを存置したのである。

しかるに近時の朝鮮人は漸次向上自覺するところがあり、又民度も昔日の比では無く、基本刑たる懲役又は財産刑をもってこれにのぞむも刑政上何等支障なしと認められるに至った。

又時勢の趨向に鑑みるときは直せつ肉體に苦痛を與える刑罰制度は文明國で刑罰として非難の餘地があり、且内鮮人閒に刑罰制度上差別を設くるが如きは新政の趣旨には副わないところであるから、大正9年3月制令第5號を以て同月末日限りこれを廃止した。その結果朝鮮人は内地人と全然同一なる刑罰制度の下に立つに至った」



大正9年以降は笞刑も廃止され、日本人と朝鮮人は全く同じ法律が適用されることになったのです。




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170830 日本は近代法制度導入で朝鮮人の命を救った 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

 日本は近代法制度導入で朝鮮人の命を救った


三一暴動での司法処理でもお分かりのように、日本は朝鮮に初めて近代法制度を導入しました。

これによって、官吏や両班の気分次第で刑が決まり、賄賂を差し出せない貧しい民衆が残虐な方法で拷問・処刑されていた李氏朝鮮時代の暗黒裁判がなくなり、多くの朝鮮人の命が助かったのです。



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宣教師シャルル・ダレが著した『朝鮮事情』(平凡社)によれば、李氏朝鮮で一般に行われていた拷問に、次のようなものがあったことが記録されています。

・棍杖(長さ1.6〜2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ程度の棍杖)で殴る。

・平棒、笞、棒杖で殴る。

・骨の脱臼と屈折(三種類あり、そのうちの一つは両ひざと両足の親指を縛り、その間に二本の棒を入れ反対方向に引っ張る)。

・吊り拷問。

・鋸拷問あるいは足の鋸引き。

・山稜杖(木製の斧もしくはまさかりで肉片を切開する拷問)。



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また、スウェーデンのジャーナリスト、アーソン・グレブストは1904年に朝鮮国内を取材旅行して書いた『悲劇の朝鮮』に、監獄内を自分の目で見たときの拷問死刑の光景を次のように記しています。

「拷問死刑は、まず棒を死刑囚の脚の間にはさみ、死刑執行人がその端に体重をかけて死刑囚の脚の骨を砕く、次に腕と肋骨を折る、最後に絹紐で首を絞める」



朝鮮人の間でも、両班や官吏の非道を糾弾する記録が残っており、李氏朝鮮末期の知識人、李人稙は「血の涙」という題で次のような詩を残しています。

「両班たちが国を潰した。賤民は両班に鞭打たれ殺される。殺されても、殴られても不平を言えない。少しでも値打ちがあるものを持っていれば両班が奪ってゆく。妻が美しくて両班に奪われても、文句を言うのは禁物だ。両班の前では全く無力な賤民は、自分の財産、妻だけではなく、生命すらその気ままにゆだねられている。口ひとつ間違えればぶっ叩かれるか遠い島へ流される。両班のヤイバにかけられて、命すらたもつことができない」(崔基鎬『韓国堕落の2000年史』祥伝社黄金文庫)



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実は朝鮮が保護国となり統監部が設置された後、日本側が最も軽蔑し敵対視していたのが、このような朝鮮における拷問と刑罰の習慣でした。

旧韓国政府の首席法務補佐官であった中村竹蔵の回想によれば、裁判所すら常々拷問を行なっており、平理院(当時の最高裁判所)でも行われていたため、彼が院長に拷問廃止を厳重に要求したところ、院長は午後遅くなって出勤し、彼が退庁するのを待って拷問を行なったそうです。


水原の京畿道地方裁判所の法務補佐官であった島村忠次郎は、刑事被告人ばかりでなく民事被告人すら拷問されるのを目撃して、伊藤博文統監に拷問禁止を申し入れています。(中川八洋『歴史を偽造する韓国』徳間書店)。

その後、韓国併合直前に法務補佐官として朝鮮に赴任した長浜三郎は、拷問の残虐さを見てほとんど腰を抜かし、赴任5カ月後に「法務補佐官会議」を開催し、その結果、1908年(明治41年)に拷問禁止を骨子とする法律が制定されて、ようやく朝鮮では拷問がなくなったのです(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』展転社)。

拷問したものは3年以下の懲役という罰則も決められました。




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170806 柳寛順は拷問死ではなかった 

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第2章 韓国が糾弾する「7奪」を論破!

  6︎⃣ 「命を奪った」への反論

   柳寛順は拷問死ではなかった


韓国で三一運動の英雄とされている柳寛順については、東京書籍中学校教科書にも「16歳の少女柳寛順は、三・一独立運動への参加をよびかけたために、日本軍にとらえられ、きびしい拷問を受けて命をうばわれました」と書いてあります。

これも朴殷植の「血史」がもとになっています。

朴殷植はこのなかで「逮捕されて拷問にかけられたものは10万人に達した」、さらに「逮捕された女学生は裸体で十字架に張り付けられ、髪を引っ張られると髪の毛も皮膚もともに剝げ落ちて血が溢れるように流れ、大地を染めた。日本の野蛮人どもは大笑いしてこの残虐を楽しんだ」と書いています。

これではまるで変質者です。



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しかしあろうことか、韓国の教科書や日本の教科書はこれをそのまま信じて、三一運動を呼びかけたために残虐な拷問で殺された「ジャンヌ・ダルク」として柳寛順を描いているのです。

実際にはこの時代、すでに拷問は禁止されており、金完燮は『親日派のための弁明2』(扶桑社)のなかで「当時憲兵警察6人と警察2人を殺害し、官公署を破壊放火した朝鮮人被疑者に対しても拷問を加えなかったという日本政府の記録から見て、1年6カ月の軽犯罪である柳寛順を拷問したというのが虚偽捏造であることは明らかだ」と、断言しています。

彼女の死因は、デモ現場での負傷や獄中での反抗による体力消耗などが原因だったそうです。

三一運動と柳寛順については、一つ一つ反駁するのも疲れるほどいろいろな作為的嘘が韓国中に広がっています。



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そこで最後に一つ、決定的な事実を指摘しておきます。

三一運動では柳寛順のみならず、三一運動に加わったという理由で逮捕された人は1人もいなかったのです(金完燮『親日派のための弁明』草思社)。





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